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世界一簡単な福音の受け取り方 How to receive the simplest gospel in the world

このブログを読んでいただける皆様へ福音が伝わり、イエス・キリストの御名により、神の救いとめぐみが皆様にあたえられますように

神の愛とは What is God 's love

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私達の神である創造主は世の人を本当に愛され

罪ある人を赦すために

神の一人子である御子を

一人の人として世に送りました

それがイエスキリストです。

 

 

創造主は人を神に似せて完全に創造されました。

 

人が何不自由なく過ごせるように全てをお与えになりました。

人には自由意思が与えられています。

自由意思がなければそれは神とロボットのような関係です。

 

人はその自由意思により神から離れました。

 

神はそれでも人を憐れまれたので

 

人から命や全てを奪わずに、エデンの東へと追放されました。

そこからの人が人を産んで現在まで75億人まで増えています。

 

人は自由意思により神から離れたのです。

 

離れた祖先が次々と子を産んで現在まできているのです。

 

私たちの親が私たちを自由意思で生んでいるのです。

 

私たちの祖先が自由意思で子供を作っているのです。

 

神は完全に神に似せて人を創造したのです。

完全に創造した人が自由意思において様々な罪を犯すようになったのです。

 

その責任はどこにあるのでしょうか?

 

完璧に創造したにもかかわらず、自由意思を持つ人自らが罪を犯したのです。

 

その罪を犯した性質はその子供またその子孫へと次から次へと遺伝します。

 

人の自由意思により神から離れたにも関わらず、神からの憐れみで、神が創造した世界で神に感謝せずに生きています。

 

いま日本に唯一の神が存在し今も生きておられ、私たちの祖先が神から背いたとはっきりと子供に示している人はどれくらいいるのでしょうか?

 

私は聖書を読むまでは当然知りませんでした。それは誰にも教えられてこなかったことも理由の一つだと思います。

教えられても聞く耳を持たなかったでしょう。

 

日本においてこの事実を伝えているのは極わずかでしょう。

私も聖書を真剣に読まなければ神から背いているなんて夢にも思いませんでした。

 

おそらくいつの頃からか伝承されなくなり、神とは普段あまり人に迷惑を掛けなければ、お願いすれば願いを叶えてくれ、一年のはじめに挨拶に行けば自分は助けてもらえるのだろうという自分勝手な自分に都合のいい神を想像し、その想像した神を拝んでいたのだと思います。

以前のわたしがそうでした。

悪いことが起これば世の中を恨み 神様などいないと思い

困ったときだけ神頼みをする。

そしてまたすぐに神の存在は忘れて日常を過ごす。

いいことが起これば、これは自分の今までの努力のおかげだ!と思い込む

 

自分の子供が悪いことをすれば「神様に怒られるよ!」と注意します。

 

しかし私たち親は、普段は一見良さそうに見えますが、少なからず裏では人の悪口を言い、他者を批判し、上司に歯向かい、部下の失敗を責め、夫婦間で争い、

神様の基準ではなく、自分自身の善悪を基準として人を裁き、人を批判し、自分が常識ある人間だと思い込んでそれぞれ、互いに生きています。

 

唯一の神が提示する 最も大切な掟の 「神である主を心を尽くして 精神を尽くして、思いを尽くして神を愛しなさい そしてそれと同じように自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟に その親自身が反してしまっているのです。

 

全ての人が唯一の神の存在を認め、この掟を守っていたら、このような世界にはなっていないのではないでしょうか。

 

 

 

神が私たちを作ろうとしたのではありません、

私たちの親が作ろうという自由意思の結果、私たち子が生まれたのです。

私たちの親はそのまた親が作ったのです。それが続いて現在まで続いています。

 

しかし罪ある私たちを救う方法として神の御子であるイエスキリストを

人々の罪の身代わりとして世に遣わせたのです。

そしてそのイエスキリストを信じたものは赦され、神の住む天国での永遠の命が約束されるのです。

 

 

 

ローマ人への手紙 3章9

ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。 次のように書いてある、義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。

すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

 

 

 

 

エスキリストが世に送られる以前は人には神から律法が与えられ、その律法により、世にいる人全てが罪を犯していることがわかりました。

つまり人は神から背き、全ての基準を自分で判断するために、生まれてから律法に照らし合わした罪をおかさずに生きることはできないのです

 

罪をおかした人を赦すためには罪を全くおかさなかった人が身代わりになることが必要です。

 

その身代わりとしてイエスキリストを世に送りました。

全ての人の罪のためにイエスキリストが十字架の上で鞭打たれ、手足を釘でさされ、人びとにさらしものにされました。

 

その傷は皆さん、誰の傷だと思いますか?

 

人類の全ての罪です。

 

罪なきイエスキリストが鞭打たれる必要がどこにあるのでしょうか?

 

罪なきイエスキリストが十字架を背負って処刑台まで歩く必要があったのでしょうか?

 

一切の罪をおかさず、人びとの病を治し、奇跡を起こし、何の見返りも報酬もなくただ人々に神に立ち返るように導きました。

 

酷い罪をおかした人が十字架にかかり死刑になる。 それは当然の報いであるとわかります。

 

 

どこにイエスキリストに罪があったのでしょうか?

 

 

エスキリストは拷問の末に十字架にかかり死なれました

エスキリストは神だから拷問の際は痛みは感じなかったのでしょうか?

 

その時のイエスキリストのお気持ちはどのようなものだったでしょうか?

 

旧約聖書が示すとおりイエスキリストは十字架にかかり亡くなることが預言されていました。

エスキリストはその預言通りに、人々の身代わりになるためにこの世にこられました。

自分がボロボロに拷問の末に死ぬことが分かりながら、人のために十字架にかかる

この世の人で他人のために拷問の末に命を捨てることが出来る人が居るでしょうか?

 

十字架に掛かりながらもこの者たちは自分で何をしているのか分かっていないのですと

最期まで御父への人々のとりなしをなさいました。

この罪なき御子が十字架にかかる理由はどこにあったのでしょうか?

全ては人々を罪から解放するために自ら十字架にかかったのです。

そして創造主が御子であるイエスキリストを送り

十字架にかかることで肉の体を葬り 3日後に復活させることによって

人の死を葬り去りました

それによりエスキリストの復活を信じるものは永遠の命が与えられるようになったのです。

 

 

 

 

ヨハネ第一の手紙四章7節

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。

愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。

愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。

神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。

神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。

わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。

もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。

愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。

わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。

「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。

 

私と皆さんでは神からの救いをいただいた以外には差はありません。

神の一方的な恵みをいただいたそれだけです。

今までのわたしの人生と比べるとはるかに皆様のほうがまっとうに素晴らしく

生きておられると思います。

ただ自分が困難に陥った時に神に頼った

その時に神が救ってくださった。

そして聖書を読み創造主に気づき イエスキリストに気づき 

私の自由意思により信仰したただそれだけです。

福音は全世界に伝えられています。

信じるかは皆さんの自由意思です。

ただ私よりも正しく過ごしておられる皆様が救われないのは心残りです。

一日も早く神に立ち返り、福音を得られることをお祈り申し上げます。

 

 

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