世界一簡単な福音の受け取り方 How to receive the simplest gospel in the world

このブログを読んでいただける皆様へ福音が伝わり、イエス・キリストの御名により、神の救いとめぐみが皆様にあたえられますように

仏教とは 浄土宗とは 浄土真宗とは

日本人の一般的な人生の最期はお葬式をお坊さんにしていただくご家庭が多いのではないでしょうか? ということは日本人の家庭の大半は仏教を信じて、仏教のしきたりを守り続けているのではないでしょうか?

 

仏教といえば「お釈迦さま」、その後仏陀となられました。

 

仏教の開祖である「釈迦」は皆さんはどういう生涯を送り、どういう教えを説いて、今の皆さんにどういう関係があるのかご存知ですか?

 

まずはこの釈迦の人生を見てみましょう。

 

釈迦 - Wikipedia

紀元前600年頃にインドの王国の王子として生まれました。

 

釈迦は王子として、生まれてからも何不自由なく裕福に暮らしていました。

 

幼少期から英才教育をうけ、16歳で結婚。

 

その後、男の子が生まれ。

 

29歳の時に出家します。

 

6年間の苦行をし、苦行は意味のないものだと悟り、苦行をやめます。

 

そして菩提樹の樹の下で「悟りを開くまではここを立たない」と誓いをたて、

 

その間に悪魔に襲われ、それに打ち勝ち悟りを開いたとされています。

 

そして釈迦の最後の教えは、有名な「自灯明・法灯明」の教えと言われています。

 

「身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。

 

自らを灯明とし、自らをより処として、他のものをより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とせずにいるのである。」と最後に弟子たちに伝えました。

 

つまり、自分の身体、感覚、心、法について観察し、理解し、そして全ての欲と自分の憂い、悩みを捨て去るように、自分自身で瞑想等により、心を静めて行く。

 

そして自分自身をよりどころとして、つまり誰にも頼らずに、法を灯明とする、つまり、世間にある、法を守るように生きていくことこそが大事であるということです。そうすれば「悟り」が開けるという教えです。

 

そして悟りを開いた人が「仏」になります。

 

釈迦は悟りを開いた後、「仏陀」と言われました。

 

皆さんはこのような「仏」になれますでしょうか?

 

自分自身をよりどころとし、自分の内側をひたすら観察し、欲や悩みが起きないように心を落ち着かせる。そして世の中にある法を守り続ける。

 

これは完全な「自己完結」ではないですか? 

 

これでは他者とのつながり、人間の思いやり、家族や友人や会社の人々との助け合い、愛などは全く関係していないのではないでしょうか?

 

釈迦は自分自身の悩みや憂いがあるために、悟りを得ようと妻を捨て、子供を捨て、出家しました。そして修行の末にこのような「悟り」を得、「仏」となりました。

 

我々庶民は、人が共存する社会のなかで仕事をし、家族を養い、子育てをして、家族と共に過ごしながら、このような出家することによって得た悟りを、我々、庶民が得ることはできないのではないでしょうか。

 

釈迦が家族を養い、働いた上でこの悟りを開いたなら、我々も同じ価値観を持った人間としてこの教えを聞く意味はあるでしょう。

 

しかし、家族を、子供を捨て、王子で働いた事のない人の教えを、

 

家族を育て、子供を慈しみ、社会で働く人々が聞いても釈迦の考え方や、精神とは違いますので実践することは難しいのではないでしょうか?

 

家族を捨て出家し、自分自身を追求することを第一とする人間でないと悟りは開けないのではないでしょうか?。

 

 

皆さんはどうお感じになりますか?

 

 

 

 

 

では極楽浄土とは一体どういうものなのでしょうか?

 

 

ごくらくじょうど【極楽浄土】

阿弥陀仏のいる世界。西方十万億土の彼方にあり、まったく苦しみのない理想郷で、今も阿弥陀仏が法を説いているとされる。阿弥陀仏を信じ、ひたすら念仏を唱えると、死後ここに迎えられるという。西方浄土。極楽世界。極楽界。極楽安養浄土。極楽。
 

kotobank.jp

www.koumyouzi.jp

 

 

ではこの「阿弥陀仏」とは一体なんでしょうか?

 

 

kotobank.jp

阿弥陀仏
あみだぶつ

 
大乗仏教における諸仏のなかでもっとも代表的な重要な仏。阿弥陀如来(にょらい)ともいい、この仏の信仰を中心として成立したのが浄土(じょうど)教である。阿弥陀という名は、もとインドにおいてはアミターユス(無限の寿命をもつ者。無量寿(むりょうじゅ))とアミターバ(無限の光明をもつ者。無量光)という二つのサンスクリット語で表されていたのであるが、それが中国に伝えられて、どちらも阿弥陀と音写された。
したがって、阿弥陀は単にアミタ(無量の意)を音写したものではなく、この二つの原名のいずれにも相当すると考えられる。

阿弥陀仏信仰を主題とする経典としては、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の「浄土三部経」がある。
無量寿経』によると、久遠の昔、世自在王(せじざいおう)仏が出現されたとき阿弥陀仏は、法蔵(ほうぞう)(ダルマーカラ)比丘(びく)という菩薩(ぼさつ)であったが、無上なる悟りを得ようと発心し、生きとし生ける者を救済するための本願(以前の誓願(せいがん))として四十八願(異本では二十四願、三十六願など)をたて、五劫(こう)という途方もなく長い間修行を重ね、ついにその誓願と修行を成就して、いまから十劫というはるか以前に仏となった。この仏は阿弥陀仏とよばれ、ここより西方の十万億仏土を過ぎた安楽(極楽(ごくらく)のこと。原語はスカーバティー、「楽のあるところ」の意)という世界(浄土)において、現在も教えを説いているという。
このような阿弥陀仏とその浄土については、このほかにも多くの大乗経典に関説されており、その教えはインドからアジア全域に広く流布した。とくに中国、日本においては、念仏によって阿弥陀仏の浄土に往生して悟りを得ることを願う教えを浄土門と称し、また他力(たりき)の教えともよび、仏教の一大系統を形成するに至った。
浄土宗、浄土真宗(または真宗)、融通(ゆうずう)念仏宗、時(じ)宗などの諸宗派はみなこの系統に属している。

『藤田宏達著『原始浄土思想の研究』(1970・岩波書店)』
浄土宗、浄土真宗ともに帰依する「阿弥陀仏」とはこういう悟った人、仏のことをいうのです。
「五劫(こう)という途方もなく長い間修行を重ね」とある5劫 1劫は43億2000万年とあります。
ではこの阿弥陀仏になる前の「法蔵菩薩」とは?

www.higashihonganji.or.jp

 遠い遠い昔の、そのまた遠い遠い昔、世自在王仏せじざいおうぶつという仏がおられました。その時、一人の国王がおられました。王は、その仏の教えをお聞きして、心からの喜びをいだかれたのです。
そして、自分も仏になって、世の人びとを悩みや苦しみから救いたいと願うようになられたのです。は、国を棄て、王位を捨て、世自在王仏のもとで出家して修行者となり、法蔵と名告なのられました。これが法蔵菩薩です。

世自在王仏 - Wikipedia

 

どうですか皆さん理解できましたでしょうか?
阿弥陀仏とは、遠い昔、王が国を捨て、出家して法蔵菩薩となられた。
その法蔵菩薩生きとし生ける者を救済するための本願(以前の誓願(せいがん))として四十八願(異本では二十四願、三十六願など)をたて、五劫(こう)という途方もなく長い間修行を重ね、ついにその誓願と修行を成就して、いまから十劫(432億万年)というはるか以前に仏となった。
この仏は阿弥陀仏とよばれ、ここより西方の十万億仏土を過ぎた安楽(極楽(ごくらく)のこと。原語はスカーバティー、「楽のあるところ」の意)という世界(浄土)において、現在も教えを説いているという。
この「阿弥陀仏」を信じることができますか?
五劫(こう)という途方もなく長い間修行を重ねる。約216億万年です。
阿弥陀仏とは、法蔵菩薩という元々、王であった人が、人を救うという願いを立て、そのための修行を216億万年をやり終えた人、これが阿弥陀仏です。
つまり、人が自分自身を修行して、磨いて悟りを開いた「人」、つまり「仏」が人を救う、これが仏教の本質です。
そこに「神」という概念は一切ありません。
仏教とは、人が究極的に修行をして素晴らしく悟りを開いた人が「仏」です。
聖書の神、つまり創造主は、全ての物を創造した。当然、「人」もです。
そして、その現代の人もその神を忘れ、離れ、感謝せず、認識せずに生きることを「罪」だと語っています。
人が修行をして悟りを得たのが「仏」 仏教ではその「仏」が人を救う
 
 
神が人を創造し、人が神から離れ自分の基準で勝手に生きることを罪という、
 
そして罪ある人を救済するために、
「神」が「人」となって、世にこられたのがイエスキリストであると聖書は語ります。
 
仏教と聖書の創造主、イエスキリストは全くの逆、反対です。
 
人が仏となるのが仏教
 
 
「神」が「人」になり、人を救うために犠牲になったのが、神の御子である、イエスキリストです。

 

 

 

 

浄土宗浄土真宗はひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えれば善人であれ、悪人であれ、全て極楽浄土に行けるという教えです。

 

では「南無阿弥陀仏」とはどういう意味なのでしょうか?

 

皆さんはご存知でしょうか?

 

jodo.or.jp

「南無」はナモーの音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマスの連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。

 

阿弥陀は、その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明 」と「アミターユス(無量の寿命)」に共通するアミタ(無量)のみを音写したもの。

 

すなわち南無阿弥陀仏とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。

南無阿弥陀仏 - Wikipedia

 

 

つまり、浄土宗 浄土真宗で最期を迎えた人はひたすら「南無阿弥陀仏」と拝み、先ほど説明した通り、遠い、遠い昔に王であった法蔵菩薩であった方が5劫という途方もない修行を終えられて、今も説法を説いておられる阿弥陀仏が造った極楽浄土に行く。ということです。

 

そしてその極楽浄土で今も阿弥陀仏が教えを説いているそうです。

 

 

 

www.gotquestions.org

 

お釈迦様のご生涯 | 法華宗真門流

 

 

私は仏教、浄土宗、浄土真宗を否定も肯定もしません。
 

私には仏教は読めば読むほど、わからなくなります。とらえどころがありません、難解です。難しいのです。
聖書は理解できます。読めば読むほど理解が深まります。
聖書の創造主とイエスキリストが語る最も大切な「掟」とは
「愛」です。

マタイによる福音書 22

「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。 これがいちばん大切な、第一の掟である。 第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」

 

これが一番大切な掟だとイエスキリストは言われました。

 

全ての人が神に立ち返り、神を愛し、全ての人が自分を愛するように隣り人を愛しなさいと。

 

聖書の教えは明確です。

 

そして神が人を愛するがゆえにその人の内に愛がある。

 

 

ヨハネの手紙4章7

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 神はそのひとり子を世につかわし、彼(御子・イエスキリスト)によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。 神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。 わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。 もし人が、エスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。

 

 

皆様が、極楽浄土に行きたいのであれば、しっかりと阿弥陀仏仏教、浄土宗、浄土真宗について学んでください。

 

学ばないと極楽浄土には行くことができません。

 

そして「南無阿弥陀仏」と唱えなければなりません。

 

 

 

書の神を信じるのであれば、簡単です。

 

この全てのもの、宇宙、地球にある植物や動物、人間など含めた全ての物を創造したのは、創造主がなされました。

 

そしてこの創造主のもとに人がもう一度立ち返り、神と共に生きる決心をし、

神の御子を人として、イエスキリストして、全ての人を救うために、全ての罪のある人々の身代わりとして十字架に架けられた

そして墓に葬られ、創造主がイエスキリストを復活させられ、イエスキリストが私たち全ての人の主(神)であると信じ、口で言い表す人は全て救われます。

 

 

 

ローマ人への手紙10章9節

兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。 モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。 しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

 

 

コリント人への第一の手紙 第15章
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、 ケパ(ペトロ)に現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。 そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。 また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのか。 兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。 もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。 べての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。 すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
 

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