仏教とは 極楽浄土とは 阿弥陀仏とは
日本人の一般的な人生の最期はお葬式をお坊さんにしていただくご家庭が多いのではないでしょうか?
ということは、日本人の家庭の大半は仏教を信じて、仏教のしきたりを守り続けているのではないでしょうか?
仏教といえば「お釈迦さま」、その後「仏陀」となられました。
仏教の開祖である「釈迦」は皆さんはどういう生涯を送り、どういう教えを説いて、今の皆さんにどういう関係があるのかご存知ですか?
まずはこの釈迦(紀元前560年~紀元前480年)の人生を見てみましょう。
紀元前480年頃にインドの王国の王子として生まれました。
釈迦は王子として、生まれてからも何不自由なく裕福に暮らしていました。
幼少期から英才教育をうけ、16歳で結婚。
その後、男の子が生まれ。
29歳の時に出家します。
6年間の苦行をし、苦行は意味のないものだと悟り、苦行をやめます。
そして菩提樹の樹の下で「悟りを開くまではここを立たない」と誓いをたて、
その間に悪魔に襲われ、それに打ち勝ち、悟りを開いたとされています。
そして釈迦の最後の教えは、有名な「自灯明・法灯明」の教えと言われています。
「身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。
自らを灯明とし、自らをより処として、他のものをより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とせずにいるのである。」と最後に弟子たちに伝えました。
つまり、自分の身体、感覚、心、法について観察し、理解し、そして全ての欲と自分の憂い、悩みを捨て去るように、自分自身で瞑想等により、心を静めて行く。
そうすれば「悟り」が開けるという教えです。
そして悟りを開いた人が「仏」になります。
釈迦は悟りを開いた後、「仏陀」と言われました。
皆さんはこのような仏になれますでしょうか?
では極楽浄土とは一体どういうものなのでしょうか?
極楽浄土とは
ではこの「阿弥陀仏」とは、
世自在王仏(せじざいおうぶつ)
法蔵菩薩(阿弥陀如来)の師仏とされる如来である。その意は「世間において自在である王」、「世間の中の自在者の王」であり、「世自在王」と訳される。
今をさかのぼること無数劫という遥か過去の時代の仏で、『仏説無量寿経』では「錠光如来」より54番目に世自在王仏が興出されたと説かれ。世自在王仏より前に興出された仏たちを「五十三仏」という。
この五十三仏の始めは何かと調べて見ましたがどこにも確かなことは書かれていません。
つまり最初の仏の始まりについて書かれていないため詳細がわかりません。
皆さんの命に関わることなので、仏教の始めは何の仏からどういう始まりがあるのか確かめてくださいね。
聖書では、創造主(御父)が初めに人を創造した、しかし、第一の人アダム、そして妻であるエバが、蛇(悪魔)の誘惑を受け、神から背いて、蛇である悪魔と人であるアダムとエバはエデンの園から追放されたとあります。
ですので、現在のこの世も蛇(悪魔)の支配下にあると聖書は語ります。
この蛇、悪魔のことを聖書では、
ヨハネの黙示録 12:7
この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへび
エペソ人の手紙6章
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
聖書に書かれている悪霊とは、「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者」と書かれています。
イザヤ書44章6節
「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。 7だれかわたしに等しい者があるか。その者はそれを示し、またそれを告げ、わが前に言いつらねよ。だれが、昔から、きたるべき事を聞かせたか。その者はやがて成るべき事をわれわれに告げよ。 8恐れてはならない、またおののいてはならない。わたしはこの事を昔から、あなたがたに聞かせなかったか、また告げなかったか。あなたがたはわが証人である。わたしのほかに神があるか。わたしのほかに岩はない。わたしはそのあることを知らない」。 9偶像を造る者は皆むなしく、彼らの喜ぶところのものは、なんの役にも立たない。その信者は見ることもなく、また知ることもない。ゆえに彼らは恥を受ける。 10だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。 11見よ、その仲間は皆恥を受ける。その細工人らは人間にすぎない。彼らが皆集まって立つとき、恐れて共に恥じる。 12鉄の細工人はこれを造るのに炭の火をもって細工し、鎚をもってこれを造り、強い腕をもってこれを鍛える。彼が飢えれば力は衰え、水を飲まなければ疲れはてる。 13木の細工人は線を引き、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを人の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。 14彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。 15こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。 16その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、「ああ、暖まった、熱くなった」と。 17そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。 18これらの人は知ることがなく、また悟ることがない。その目はふさがれて見ることができず、その心は鈍くなって悟ることができない。 19その心のうちに思うことをせず、また知識がなく、悟りがないために、「わたしはその半ばを火に燃やし、またその炭火の上でパンを焼き、肉をあぶって食べ、その残りの木をもって憎むべきものを造るのか。木のはしくれの前にひれ伏すのか」と言う者もない。 20彼は灰を食い、迷った心に惑わされて、おのれを救うことができず、また「わが右の手に偽りがあるではないか」と言わない。
聖書に、はっきりと
わたしのほかに神はない。
と書かれています。
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
三位一体の神
福音を受け取るためには
聖書では、この世界の全てのもの、宇宙や、自然や植物、動物、そして人間、ありとあらゆるものは神である創造主が創造されたと書かれています。
この全てのものを創造したのが創造主であることを認識しないで人間が生き続けることを「的外れ」つまり「罪」であると書かれています。
ローマ人への手紙1章
18神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。 19なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。 20神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物(あらゆる全てのもの)において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。 21なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
そして人には神が皆さん一人、一人に備えた「良心」に反することも罪だと書かれています。
使徒行伝 24章
16わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています。
今までに創造主を認識し、一度も良心に反したことがないという方はいらっしゃるでしょうか?(この世に罪をおかしたことがない人は一人もいないと聖書に書かれています。)
ローマ人への手紙 3章
10次のように書いてある、/「義人はいない、ひとりもいない。 11悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。 12すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、/ひとりもいない。
私には、その罪があると認めることが救われる第一歩です。
へブル9章27節
人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている
そして聖書にあるとおり
イエスキリストが、わたしたちの罪のために死んだこと、
そして墓に葬られたこと
三日目によみがえったこと、
ケパ(弟子のペテロ)に現れ、次に、十二人に現れたこと
つまり、創造主である神がイエスキリストを復活させたことを心から信じ、
イエスキリストが私の主であると口で告白すると救われます。
コリント人への手紙第一 15章2節
この福音によって救われるのである。
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
ケパ(弟子のペテロ)に現れ、次に、十二人に現れたことである。
洗礼をしたから救われるのではなく、善行を積み重ねることで罪が赦され救われるのでもなく
(福音を得てイエスキリストに従順を示すために洗礼を行います。イエスキリストの十字架の死によって、皆さんの罪が赦されます。)
三位一体の神(創造主、御子イエスキリスト、聖霊)に対して心で信じ、口で告白することで、誰でも、いつでも、どこでも、ひとりでも、一円も払わずに救われます。
イエスキリストが神であると心から信じた方は以下のとおり言ってください。
「イエスキリストは私の神です!」
ローマ人への手紙10章9節
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
聖霊の働きがないと、心から口で言い表すことはできません。
(心を静めて、静かな部屋で、三位一体の神様がいると思って「イエスキリストは私の神です。」と口に出して言い表してください。 心から言い表すことができるのは神様の力が働いているからです。)
ローマ人への手紙10章13節
「主(イエス)の御名を呼び求める者は、すべて救われる」
そもそも救われるとはどういうことか?
http://seishonyumon.com/question/428/
三分で分かる聖書入門 全リスト
https://www.youtube.com/playlist?list=PLQ19z6ZsfJHyF4rAvDewELJHdSeUmMreS
以下のサイトは全て携挙について書かれています。
皆さまは聖書と照らし合わせて確認していただき
一日も早く福音を得られることをお祈り申し上げます。
http://www.harvesttime.tv/assets/PDF/Seminars/Fruchtenbaum-2014-PretribulationalEvents.pdf
2017-01-01から1年間の記事一覧 - 世界一簡単な福音の受け取り方 How to receive the simplest gospel in the world
ローマ人への手紙10章9節
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。 モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。 しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。