世界一簡単な福音の受け取り方 How to receive the simplest gospel in the world

このブログを読んでいただける皆様へ福音が伝わり、イエス・キリストの御名により、神の救いとめぐみが皆様にあたえられますように

悪とは

私は、宗教に勧誘しているわけではありません。

 

聖書の真実を知って欲しいのです。

 

聖書の内容を知って欲しいのです。

 

聖書をそのまま読むならば、聖書の創造主と神の御子であるイエスキリスト、創造主、ご自身のご性質である聖霊が「福音」を得た人々に内住され、

福音を得、聖霊が内住した真のクリスチャンが創造主である神、そして神の御子であるイエスキリストと直接つながります。

 

このことを知ってほしいのです。

 

そして皆様が福音を得て聖霊が内住し、聖書を読み、調べるならば、全ての真実がわかります。

 

ですので、聖書を読むことは宗教ではありません。

 

私たち人間を創造した神の教えを聖書で学ぶことです。

 

いま現実に、怪しい宗教はたくさんあります。

 

皆さんも良くご存知だと思います。

 

 

私が望むのは、

神とイエスキリストを信じ、福音を得て、聖書を皆様で読んでいただくだけです。

 

それだけです。

 

神の名を語り、人を惑わし、教祖が崇められる、

教団が大きくなること、教団の上層部だけが豊かになること、

政治や権力、メディアなどと癒着し宗教の名のもとに、政治力をも使って力を強める集団。

 

洗脳、出家、隔離し全ての富を教団に捧げないと幸せになれないと嘘、偽りによって人々を縛り付ける。

 

このような人を惑わすところは私が最も忌み嫌うものです。

 

皆さんもこのような集団、宗教をたくさんテレビや身近に目にしてきたので、「宗教」と聞くと拒絶反応してしまうのではないでしょうか?

 

「聖書」「キリスト教」と聞けば、

「〇ホバの証人(現も〇みの塔)」や「モ〇モン教(現末日聖徒〇エスキリスト教会)」、統〇教会(現世界〇和統一家庭連合)など悪いイメージがあるかと思います。

 

これらは、いわゆるカルトです。

 

このようなカルト教団は聖書の内容を捻じ曲げていますので、教団を信じても神から救われません。

 

教団や教祖にお金と時間を吸い上げられた末に、「聖書」が語る創造主、イエスキリストに救われることがありません。

 

聖書を読んで理解すれば、本当の創造主、イエスキリスト、聖霊につながります。そして救われます。

 

聖書をしっかりと読み、理解することが大事なのです。

 

そうすれば「世の中の欺き」に対抗できます。

 

変な宗教に引っかかることもありません。

 

そして将来どうなるかも聖書には書かれています。

 

聖書には、創造主の言葉が書かれています。

 

 

以下これは、はっきりと創造主が語っている言葉です!

 

イザヤ書46章9(紀元前700年 約2700年前)

 

遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。

ほかにはいない。わたしのような神はいない。

わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。

 

 

 

 

皆さん聖書と聞くとどんなイメージですか?

 

私は全くイメージがありませんでした。

 

エスキリストのこと、なんとなく道徳的に良いこと、などが書かれていると思っていました。

 

しかし、実際に読んで見て、調べてみると想像を絶することが書いてあります。

 

 

創世記第1章
はじめに神は天と地とを創造された。
 
こう書かれています。
 
どう感じますか? 
 
3500年前に作られた聖書のはじめにこう書かれています。
はじめに神が天と地を創造されたと書かれています。
 
 
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 
そして第一の人も神が創造されました。
 

そしてその第一の人であるアダムとエバが蛇(悪魔)の誘惑に負け、神からエデンの園から追放されたと書かれています。

 

創世記3

主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

 

皆さんは初めてこれを聞いて何のことかピンとこないと思います。

 

「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」

 

特に上記は「原福音」と呼ばれ

「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とは、イエス・キリストが悪魔(サタン)の化身である「蛇」の頭を砕きますが、同時にイエス・キリストもかかとにかみつかれるのです。これはキリストの十字架の受難です。

 

この蛇の頭を砕くとは致命傷であり、将来起こるキリスト再臨により、反キリストが滅ぼされ、イエスキリストが治める千年王国へとつながります。

 

信じがたいとは思いますが、何千年も前に初めての人アダムが悪魔に誘惑され、その時に、全ての人を救うためにイエスキリストが十字架に架かること、そして将来起こるイエスキリストの再臨によって反キリスト(悪魔)を滅ぼすことが、創造主により宣言されました。

 

つまりイエスキリストの十字架は歴史的事実ですから、将来のイエスキリストの再臨も現実として起こります。

堕罪と原福音の預言 - 牧師の書斎

 

 

この世の中はなぜ神がいるなら、こんな世界なんだろう!

 

なぜ戦争は無くならないのだろう!

 

なぜ犯罪がなくならないのだろう!

 

なぜ貧富の差や病気で貧困で亡くなる人が居るのだろう!

 

ああ、なんて神様は不公平なんだー!と思ったことはないですか?

 

わたしも以前はそう思っていました。

 

しかし聖書に書かれているように神が全てを創造した

しかし人が悪魔の誘惑に負けて善悪の知識の木の実を食べてしまった。

 

つまり神中心から、人が自分自身を中心に生きるようになって、人と悪魔である蛇と共にエデンの園から追放されている状態が今現在の状況です。

 

 

聖書に書かれているとおり、神がいるなら、悪魔もいる

 

 

そして、この世は悪魔が中心の世界です。

 

聖書には悪魔がそそのかした、と書かれています。

 

そこから聖書が語る救済のための「福音」を得た人を救い

 

最終的にはこの悪魔が支配した世界を神の御子であるイエスキリストが再臨し、全ての悪を滅ぼすとはっきりと何度も書かれています。

 

 

 

 

下は聖書に何箇所にも「悪魔」について書かれています。

ヨハネの黙示録 20:1

またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。彼は、悪魔でありサタンである、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、 して、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

 

 

ヨハネの第一の手紙 3:8

罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。

 

 

 

エペソ人への手紙 6

後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、 平和の福音の備えを足にはき、 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

 

 

 

ペテロの第一の手紙 5

そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。 また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。 そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。 だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。 あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。 どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。

 

 

エペソ人への手紙 4

さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。 しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。 そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。 さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。 降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。 こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。 また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、 心の深みまで新たにされて、 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。 こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。 怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。 また、悪魔に機会を与えてはいけない。 盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。 悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。 すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。 互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。

 

 

 

ヨハネの黙示録 12:7

さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、と戦ったのである。もその使たちも応戦したが、 勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。 その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。 兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。 それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。

 

 

 

 

 

今、人間には神は見えません、そして悪魔も見えません。

 

ただ確かに存在します。

 

なぜなら、悪に誘惑されるまでは、人は悪を行えなかったからです。

 

悪に誘惑されたとおりに、神からの唯一の約束、善悪の知識の実を食べました。

 

つまり、罪を犯しました。

 

それにより、目に見えない悪魔の誘惑により人は次々と、世代に渡って、悪を行うようになりました。

 

 

皆さんも心あたりはありませんか?

 

 

私にはあります。数々の罪をおかしたことが、やってはいけないと神から与えられた「良心」が叫んでも、ついつい「悪」を行ってしまう。

 

悪にも大きな悪から小さな悪までありますが、悪に従うならばそれは悪魔に従っていることになるのです。

 

 

その過去、現在におかした悪から罪から、全てを赦し、神の元へ引き戻していただく方法が「福音」を得ることです。

 

私たち全ての人は元をたどれば、アダムとエバの子孫です。

 

アダムとエバから広がった様々な人、民族の血、遺伝子が入り混じり、現在の私たちになっています。

 

私たちの血や体には、代々受けついだ先祖の悪い習慣、遺伝的要素も引き継がれています。

 

もちろんアダムとエバがまずはじめに、神から背いた、原罪の遺伝的要素も引き継いでいるため、生まれながらにして、本来の神を知ることなく、自分の善悪の基準で生き、いつの間にか、本来の創造主ではなく、偽りの神を日本人の私たちは知らず知らず、拝んでしまってるのです。

 

 

聖書を今すぐにでも、読んだ方がいい

なぜならもうすぐ聖書で書かれている

終わりの日、裁きの日、7年間の大艱難時代が始まる可能性がどんどん強まっているからです。

 

皆様が一日も早く、素直な心で創造主の元に再び帰る決心をし、福音を受け取られることを心からお祈り申し上げます。

 

 

 

hukuinn.hatenablog.com

hukuinn.hatenablog.com

f:id:yotutaka:20170522093012p:plain

神社とは 神道とは 日本の神々とは

さんは神社に行く際はどういう時ですか?

 

私は初詣の際に以前は行っていました。

 

その年によって祈ることはいろいろでしたが、

 

「家族が健康でありますように」

 

「健康な子供が生まれますように」

 

「仕事が順調に行きますように」

 

「大学受験で志望大学に合格しますように」

 

過去にいろいろ神社やお寺に行っては、賽銭箱にいくらかのお金を入れてお願いしたことがあったと思います。

 

 

あ!聖書の神である創造主、私たちの主であるイエスキリストは私たちに、祈りを叶えるという理由で金銭の要求はしません。

 

 

もちろん病気にならないように、厄年に不幸にならないようにするためにお金をお求めになりません。

 

 

神とイエスキリストを「真に信仰する心」をお求めになるのみです。

 

 

しかし、神社に行って、例えば、「家族が健康でありますように」と祈っている瞬間は、その人が本当に素直な心で祈っているならば、本当の神である創造主に近づいていると思います。

 

なぜその瞬間だけなのか?

 

 

それは日本人である私たちは、神がその神社にずっと居ると勘違いしているからだと思います。

 

ですから、神社でお願いをした後は、また神と別の生活、神が見ていない、自分の基準での生き方をするのではないでしょうか?

 

神である創造主は全知全能ですから、皆さんの思考、行動、全てをご存知です。神社の前だけ神妙な気持ちになっていたとしても、普段の生きている中で、神が不在という認識で生きているならば、それは神から離れていることになります。

 

ですので聖書ではまず創造主である神に立ち返りなさいと。

 

神を認識せずに生きていることを「罪」と認めなさいと、

神を認識せず、感謝せず人が生きることは「的外れ」だと

 

そして全ての人は生まれながらに一人として神を認識して生まれる人はいないと語っています。

 

 

ですので人生はまずこの神の存在に気づき、全てを創造された創造主に感謝するところから、「真の神と繋がった人生」となるのです。

 

創造主である神は、創造主以外のモノを拝む、あるいは感謝することを大変お怒りになります。

 

 

全てを創造した創造主に感謝せずに、何も創造していない偽りの神を人が拝んでいるならば、その人に対してもお怒りになります。

 

 

何も創造していないモノが神のふりをしている。このことにも神はお怒りです。

 

 

そして、自然を通して、聖書を通して、創造主である神だということを現しているにもかかわらず、それを信じずに、偽りの神を信じている人に対しても神はお怒りになり、死ぬまでに創造主に立ち返らず、福音を得なかった者は、天国には行くことができません。

 

 神社に行っても本当の創造主である神はいません。

 

 

 

 

現在88000社 ちなみにお寺は77000寺

 

多いと言われるコンビニでも53000件

 

歯科医院でも69000院程です。

 

 

神社やお寺はこの過剰だと言われるコンビニや歯科医院よりも多いのです。

 

私は神社やお寺を否定も肯定もしません。現に私が真のクリスチャンと自覚するまで、少なくとも年に一回や二回は行っていましたから。

 

しかし私がしてきた神社やお寺に対して払ったお金(お賽銭、七五三、お守り、おみくじ、安産祈願、厄払い)が全く意味のないものであったら、

 

私一人が支払った金額だけではなく、親や代々の先祖、あるいは地域の人々、更に過去に遡った全ての日本人が支払った金額が全く意味がなく、そこにいるとされている神社の神々、あるいはお寺にある仏や菩薩が何一つとして人々の願いを叶えていなかったなら、どれぐらいの損失であろうか?と考えてしまいます。

 

日本人は優しいですからお金を払って願いを祈り、その願いが叶えられなくても、神社やお寺に「お金を返せ!」という人はいないのではないでしょうか?

 

厄払いをしても、不幸なことが起こった方もたくさんいるのではないでしょうか?

 

しかし日本人は「あー、私の今までの行いが悪かったんだな」とか

 

「これくらいで済んだのは厄払いのおかげだ」といろいろ自分に折り合いをつけて自分で納得するのではないでしょうか?

 

お金を払ったから助けてくれる。

 

お金を払ったから守ってくれる。

 

 

本当の神様っていうのはそういうものでしょうか?

 

 

書の創造主は何より人の命は尊いものとされています。

 

皆様が神から離れたままでは天国に行くことができない。

 

つまり永遠の命が失われてしまいます。

 

人々の命を救うために、創造主ご自身の最愛の子である、同じように神であり御子である、イエスキリストの命を私たちの人類のためにお与えになりました。

 

この「福音」を得たものは、すべてが救われます。そして生きている間も神と共に生きることで、その人は祈りや聖書を通じて、現実でも恵まれます。

 

そして福音を得た人は祈りを通じて、無料で、願いは叶えられます。

 

創造主である神様、そしてイエスキリストは多額の賽銭や献金よりも、一人の人が、「福音」を得ることを何よりもお喜びになるのです。

 

つまり本当にこの世界には、人も含めた全てのものを、初めから創造された創造主がいらっしゃると気づき、創造主を心から信じる信仰を求められるのです。

 

そして福音を得た人は「神の子」とされ創造主を父と呼び、その父である創造主は皆様の全ての願いを、御子であるイエスキリストのお名前によって叶えてくださいます。

 

 

ですから創造主とイエスキリストは、

 

お金を払わなくても、

 

信じた全ての人の願いを叶え、

 

全ての人を愛されます。

 

 

いかがでしょうか?

 

わざわざ行かなくてもいいんです。 

 

静かなところでひとりで祈れば、神に伝わります。

 

お金を払わなくてもいいんです。

 

反対に皆さんが福音を頂けるのです。

 

永遠の命が与えられるのです。

 

神の子とされるのです。

 

 

これからも、まだ、日常は自分の基準で、自分のやりたいように生き、

困った時だけ、神にお願いをするのでしょうか?

 

 

皆さんが反対の立場であったらどうでしょう?

 

普段はいてもいなくても良いという扱いをされ、しかし困ったときにはお願いをしてくる人がいたら

 

そういう人を皆さんは手助けしたいと思うでしょうか?

 

しかもお願いする人を間違えて、手助けしてくれない人(神社・お寺)に頼っているなら

 

仕方がないから今回は創造主が願いを叶えても、間違った何も手助けできない神社やお寺の神々に感謝しているのでは、本当の神である創造主は嘆かれるのではないでしょうか?

 

 

 

では神社には何が居ることになっているのでしょうか?

 

 

www12.plala.or.jp

 

 

神社の神々はどういうふうにして出てきたのかが記載されているのは日本では「古事記」「日本書紀」にあたります。

古事記』の成り立ち


古事記こじき)』が完成したのが712年(和銅5)。

太安万侶(おおのやすまろ)の序文(じょふん)には、
天武天皇(てんむてんのう)が、
舎人(とねり)の稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて
誦み習わせた帝紀(ていき)と旧辞(きゅうじ)を、
天武天皇の没後に、元明天皇(げんめいてんのう)の命令で、
太安万侶が撰録(せんろく)し、
712年に進上した、と記されています。

帝紀とは、歴代の天皇の系譜。
旧辞とは、古い時代に、
各地の氏族に口誦で伝えられた様々な伝承のこと。

その系譜や伝承が、
一つの大きな物語として体系化されたのが、
天武天皇の即位後の7世紀後半ごろ。

その体系化された物語が、
日本の「歴史」として、文字に記録され
元明天皇に進上されたのが712年になります。


現存する最古の歴史書

710年に都が藤原京奈良県橿原市)から奈良の平城京に移されました。その2年後の712 年、太安万侶(おおのやすまろ)によって『古事記』がまとめられました。これは、7世紀後半の天武朝に天皇の命を受けて、稗田阿礼(ひえだのあれ)が習誦していた歴史を太安万侶が筆録したものです。日本の歴史を叙述したものとしては現存最古であり、日本の古代史を語る際には欠かすことのできない根本史料です。

神話が重視されている

古事記』は、神代から推古天皇までを紀伝体で記述しています。上・中・下巻の3巻から成っていて、このうちの上巻は神代にあてられており、神々の世界が描かれています。具体的には、天地開闢から始まって天孫降臨に至るまでが叙述されています。
このように上巻の出だしは天地が分離したことから始まっているわけですが、太安万侶が記した序文では、天地が未分離の状態から書き始められています。
しかし、いずれにしてもここから言えるのは、神話の比重が大きいこと。このことは神代の昔から葦原中つ国(地上の国)の支配者は天皇家であるということを強調していると思われ、ここにこそ『古事記』の最大の編纂意図があると言ってよいでしょう。 中巻は神武天皇から応神天皇までが記されています。この時代は、神武天皇の東征伝承や神功皇后のいわゆる三韓平定伝承などをみてもわかるように英雄的な天皇が多く登場します。
下巻は聖帝伝承で有名な仁徳天皇から推古天皇までのことが記されていますが、最後のほうになると記述がとても簡単になっていて、有名な聖徳太子の伝承などはほとんど記されていません。

 

『古事記』の成り立ち - 編纂1300年を迎えた【古事記の神話】

上記ホームページより抜粋

 

 

 

こで分かることは712年(今から1300年前)までは日本の神々はどのようにしてできたのかはっきり分かっていなかったということ。

つまり元明天皇の命を受けて稗田阿礼が誦み習わせた帝紀(歴代の天皇の系譜)と旧辞(古い時代に、各地の氏族に口誦で伝えられた様々な伝承のこと)を、太安万侶が撰録
天皇を神格化するために、その系譜や伝承が、一つの大きな物語として体系化されたのが、「日本の歴史」として、文字に記録されたものが古事記です。

 

 

www.buccyake-kojiki.com

日本最古の神社 である三輪神社を例にしてみると、


大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市三輪にある神社。日本最古と思われる神社の一つ。

御祭神は大物主大神 初代神武天皇の義理の父(皇后 比売多多良伊須気余理比売の父が大物主大神)にあたる。とあります。

 

ではこの大物主大神がどんな神かというと

大物主 - Wikipedia

 大物主は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきた。このことから、最も信仰古き神々の内の一柱とも考えられる。古事記によれば神武天皇の岳父、綏靖天皇の外祖父にあたる。なお、大国主の分霊であるため大黒天として祀られることも多い。

 

 

蛇神とあります。蛇の神様っているんですね。

 

3500年前に書かれた聖書では創造主が創造した第一の人アダム、そいてエバそのふたりを神から離すようにそそのかしたのはとあります。聖書では蛇は悪魔の象徴です。

 

更にこの 大物主は

古事記・神武記によると、三島溝咋(ミシマノミゾクヒ)の娘の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。勢夜陀多良比売に何とか声をかけようと、大物主は赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子が富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)であり、後に「ホト」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と名を変え、神武天皇の后となった。

 

 

こんなものが神なんですか?

 

このような神に普段の感謝と願いを献げる必要があるのでしょうか?

 

古事記を見るととんでもない神々がいます。とても神とは思えないようなものまで

 

 

あくまで古事記日本書紀はこれまでに日本の歴史が記述されているものがなかったので当時権力を持っていた天皇、そして権力を意のままに操った諸豪族によって編纂されたものであると思います。

 

 

天皇を神の血統であることを主張するために、さまざまな神々を作り出し、その「神々のつながりがある天皇家」とするために、「古事記」「日本書紀」は編纂され、そこで作り出された神々は、神社に祀られるようになったのだと思われます。

 

 

 

そして現代の我々、庶民がどれだけ調べようとも、専門家たちが発信する、真実かどうか確認しようのない資料や発言をもとにしてしか知る方法がありません。

 

 

 

 

皆様は今まで間違った神を拝んでいたのです。

 

拝ませられていたのです。

 

 

まで神社に真剣に感謝し、祈っていた気持ちで、本当に全てを創造し、当然、皆様のことを良くご存知で、皆様が戻ってくることを心待ちにされている本当の創造主にこれから感謝し、祈りを献げて下さい。

 

素直に神に立ち帰るならば、本当の神はあなたに必ず報いてくださいます。

 

 

使徒行伝 17章
1一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。
2パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、
3キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。
4ある人たちは納得がいって、パウロとシラスにしたがった。その中には、信心深いギリシヤ人が多数あり、貴婦人たちも少なくなかった。
5ところが、ユダヤ人たちは、それをねたんで、町をぶらついているならず者らを集めて暴動を起し、町を騒がせた。それからヤソンの家を襲い、ふたりを民衆の前にひっぱり出そうと、しきりに捜した。
6しかし、ふたりが見つからないので、ヤソンと兄弟たち数人を、市の当局者のところに引きずって行き、叫んで言った、「天下をかき回してきたこの人たちが、ここにもはいり込んでいます。
7その人たちをヤソンが自分の家に迎え入れました。この連中は、みなカイザルの詔勅にそむいて行動し、イエスという別の王がいるなどと言っています」。
8これを聞いて、群衆と市の当局者は不安に感じた。
9そして、ヤソンやほかの者たちから、保証金を取った上、彼らを釈放した。
10そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。
11ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
12そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。また、ギリシヤの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった。
13テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神の言を伝えていることを知り、そこにも押しかけてきて、群衆を煽動して騒がせた。
14そこで、兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して、海べまで行かせ、シラスとテモテとはベレヤに居残った。 15パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行き、テモテとシラスとになるべく早く来るようにとのパウロの伝言を受けて、帰った。
16さて、パウロアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。 17そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた。
18また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中のある者たちが言った、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」。また、ほかの者たちは、「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」と言った。パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていたからであった。
19そこで、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って、「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。
20君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ」と言った。
21いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである。
22そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。
23実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。 24この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
25また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、
26また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。
27こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
28われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。
29このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。
 
30神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
31神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。
32死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。
33こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
34しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった。その中には、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、また、その他の人々もいた。

 

hukuinn.hatenablog.com

hukuinn.hatenablog.com

f:id:yotutaka:20170522092956j:plain

あなたは「罪人」であると言われて抵抗のある方へ

私も人から「君は罪人だ!」と突然に言われたとしたら、

 

「なんでやねん!」

 

と言っていたでしょう。

 

「罪人」というのは現代の人びとにとって抵抗のある言葉です。

 

今は食べ物も豊かになり、飢え渇くことも少なくなりましたので、一般的に「罪」だと思われている盗みや殺人や、強奪などすることはありません。

 

 

しかし、「君の人生は頑張っているけれど、少し的を外してるよ」と言われれば、

 

 

「え!どこが的を外してるの?」

 

と聞き返したくなります。

 

 

書では「罪」のことを

 

ギリシヤ語で「ハマルティア」άμαρτια 「的外れ」といいます。

 

英語では sins。

 

 

真のクリスチャンになるまでの私の人生では、

 

「学校で勉強して、大学に行き 人に迷惑をかけずに、出来るだけいい会社に入り、

社会に貢献し、周りの人と協力しながら働き、出来るだけ高い収入を得て、

家を建て、家族と仲良く暮らし、子供を育て、子供が出来るだけいい会社、いい人生が歩めるように導き、最後は年老い、80歳くらいで人生を終えれたらいいのにな」と考えていました。

 

 

このことが聖書では的を外していることになるのです。

 

 

 

何故か、

 

そこに神が全く関与していないからです。

 

神との関係がない人生だからです。

 

神に感謝しない人生だからです。

 

神に頼らない人生だからです

 

神と共に歩まない人生だからです。

 

あなたが生きていられるのは

あなたがこの地球という環境で息をし、水をのみ、食物があって、親がいて、社会があって、自然がある。この全てのものを存在させた方、この全てのものを初めに創造した創造主である神のことを認識していない。

 

そして、自分の基準で、自分の人生を、自分自身が作ろうとすることが「的外れ」つまり「罪」ですよと聖書では言っています。

 

 

私は福音を得て、神からの赦しを得ることができました。

 

神から罪人とされないためにも一日も早く「福音」を得てください。

 

 

何より、これ以上「的外れな人生」を続けることをもう終わりにしましょう!!!

 

 

 

hukuinn.hatenablog.com

hukuinn.hatenablog.com

f:id:yotutaka:20170419131634j:plain

仏教行事 お盆とは お彼岸とは

jodo.or.jp

上記より抜粋

 

お彼岸とは

「春秋に迎えるお彼岸は、それぞれ春分秋分の日を中日としての一週間をいい、日本独特の行事です。そしてこのような形態で行われるようになったのは聖徳太子の時代からといわれています。平安時代初期から朝廷で行われ、江戸時代年中行事化されたという歴史があります。

 

さらにその根拠を尋ねてみますと、前述の二河白道を説かれた善導大師の著書『観経疏(かんぎょうしょ) 』の「日想観」が源となっています。

 

善導大師は春分秋分の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈むところから、その陽の沈みゆく西方の彼方にある極楽浄土に思いを凝らすのに適していると説かれました。

 

お彼岸はこの日想観を行って極楽浄土を慕うことを起源とした仏事なのです。」

 

 

1kara.tulip-k.jp

 

浄土真宗も同じように

親鸞聖人が尊敬されている善導大師(ぜんどうだいし)の有名な譬え話に、
二河白道(にがびゃくどう)の譬え話があります。

 

その譬え話では、水の河と火の河の二つの河があり、その河をはさんで、こちらの岸と向こう岸があります。そして、こちらの岸と向こう岸の間に細い白い道が伸びています。


こちらの岸が私たちの生きている世界、向こう岸が極楽に例えられています。こちらの岸を此岸(しがん)、向こう岸を彼岸(ひがん)といいます。彼岸とは、極楽のことをいいます。

 

仏教では、極楽は、西方にあると教えられています。

これより西の方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名けて極楽という。(阿弥陀経

「彼岸」は西にあるので西岸ともいい、「此岸」は東にあるので東岸ともいわれます。


3月の春分の日と9月の秋分の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈みます。

 


その日に、西方の極楽におられる阿弥陀仏を礼拝するのにふさわしいという考えから、次第に、極楽をしのぶ日、また、先祖をしのぶ日として、定着していったといわれます。

 

 

前にも取り上げましたが聖書の語る天国と仏教の語る極楽浄土は同じではありません。

 

天国とは創造主が居られるところが天国です。

 

 

極楽浄土とは

阿弥陀仏のいる世界。西方十万億土の彼方にあり、まったく苦しみのない理想郷で、今も阿弥陀仏が法を説いているとされる。阿弥陀仏を信じ、ひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えると、死後ここに迎えられるという。西方浄土。極楽世界。極楽界。極楽安養浄土。極楽。
 
 
その阿弥陀仏とは
遠い遠い昔の、そのまた遠い遠い昔、世自在王仏せじざいおうぶつという仏がおられました。その時、一人の国王がおられました。王は、その仏の教えをお聞きして、心からの喜びをいだかれたのです。
そして、自分も仏になって、世の人びとを悩みや苦しみから救いたいと願うようになられたのです。王は、国を棄て、王位を捨て、世自在王仏のもとで出家して修行者となり、法蔵と名告なのられました。これが法蔵菩薩です。
そしてこの法蔵菩薩が、無上なる悟りを得ようと発心し、生きとし生ける者を救済するための本願として四十八願をたて、五劫(216億年)という途方もなく長い間修行を重ね、ついにその誓願と修行を成就して、いまから十劫(432億年)というはるか以前に仏となった。
この仏は阿弥陀仏とよばれ、ここより西方の十万億仏土を過ぎた安楽(極楽(ごくらく)のこと。原語はスカーバティー、「楽のあるところ」の意)という極楽浄土において、現在も教えを説いているという。
十万億仏土とは

1光年とは 光が 1年間ですすむ距離なので 仮に 1仏土を 一万光年として 計算すると
  十万億仏土の距離 (娑婆世界から極楽浄土まで) とは 100,000,000,000,000,000光年(十京光年)となります。

西方十万億仏土 極楽浄土 阿弥陀仏

www.higashihonganji.or.jp

 

つまり、お彼岸とは、

遠い遠い昔の、そのまた遠い遠い昔、世自在王仏せじざいおうぶつという仏のもとで、その昔、一人の国王であった人が出家し、法蔵菩薩として216億年間修行し、そして今から432億年前に阿弥陀仏となられた、この阿弥陀仏が造った所が極楽浄土。

その極楽浄土は西方の十万億仏土を過ぎたところにあるとされ、

春分秋分の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈むところから、その陽の沈みゆく西方の彼方にある極楽浄土に思いを凝らすのに適しているとされ、

このことから次第に、極楽をしのぶ日、また、先祖をしのぶ日として、お彼岸行事が定着していったといわれます。

 

 

さんいかがですか?

 

阿弥陀仏となったのは432億年前です

 

そして216億年間修行されて法蔵菩薩阿弥陀仏となった。

 

紀元前500年から600年に説かれた説法ですから、昔の人々は、教養や知識、知恵に富んでいるわけではありませんでした。ですのでこのことを聞いても「ありがたやー!」と聞くしかなかったでしょう。

 

しかし今現在、全ての人が読み書きができるほどに教養、知識は与えられています。

 

そのような現代の人々が、遠い昔の一人の王であった人が216億年間修行したとか、432億年前に阿弥陀仏となって今も極楽浄土で説法を説いておられます。と聞くと、余りにも非科学的過ぎると感じるのではないでしょうか?

 

 

これが皆さんの最後の最期、死後の全てをお任せするに値するほどの説得力があるのでしょうか?

 

 

 

お盆とは

「盆と正月の里帰り」などといわれるように、お盆は昔から日本人の心に深く根づいた風習・行事で、古代インド語ウランバナの音訳、「逆さまに吊(つる) されるような苦しみ」を除く行事です。その由来は「盂蘭盆経」というお経によっています。

 

それによりますと、お釈迦さまの十大弟子で「神通第一」といわれる目連さまが、ある日、亡くなった自分の母親のことを神通力を使って見ていると、なんと母親は餓鬼の世界に落ちて、苦しみにあえいでいました。びっくりした目連さまは、お釈迦さまのところへとんで行き、どうしたらよいかを相談しました。

 

するとお釈迦さまは、「90日間の雨季の修行を終えた僧たちが7月15日に集まっ て反省会を行うから、その人たちにごちそうをして、心から供養しなさい」とおっしゃり、そのとうりにすると、目連さまの母親は餓鬼の苦しみから救われました。

 

お釈迦さまはさらに「同じように、7月15日にいろいろな飲食を盆にもって、仏や僧や大勢の人たちに供養すれば、その功徳によって、多くのご先祖が苦しみから救われ、今生きている人も幸福を得ることができ よう」とお説きになりました。

 

これがお盆の行事の始まりです。お盆には精霊棚を飾ってご先祖をお迎えし、菩提寺(ぼだいじ) の和尚(おしょう) さまに回向(えこう)していただき(棚経(たなぎょう) )、また菩提寺へ行ってお墓参りをして、数多くのご先祖を心からご供養いたしましょう。」と、

 

上記は浄土宗の公式ホームページには上記のとおり記載されています。

 

 

いかがでしょうか?

 

 

私たちの先祖、皆さんの先祖は本当に餓鬼の世界に落ちているのでしょうか?

 

 

はたまた今はどの世界にいるのでしょうか?

 

 

六道輪廻とは

天道
天道は天人が住まう世界である。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされる。また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。しかしながら煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため解脱も出来ない。天人が死を迎えるときは5つの変化が現れる。これを五衰(天人五衰)と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎む。
人間道
人間道は人間が住む世界である。四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされる。また、唯一自力で仏教に出会える世界であり、解脱し仏になりうるという救いもある。
修羅道
修羅道は阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界である。
畜生道
畜生道は牛馬など畜生の世界である。ほとんど本能ばかりで生きており、使役されるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救いの少ない世界とされる。他から畜養(蓄養)されるもの、すなわち畜生である。
餓鬼道
餓鬼道は餓鬼の世界である。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる。他人を慮らなかったために餓鬼になった例がある。旧暦7月15日の施餓鬼はこの餓鬼を救うために行われる。
地獄道
地獄道は罪を償わせるための世界である。詳細は地獄を参照のこと。

このうち、地獄から畜生までを三悪趣三悪道、あるいは三悪、三途)と呼称し、これに対し修羅から天上までを三善趣と呼称する場合がある。また地獄から修羅までを四悪趣と称することもある。

 

また六道から修羅を除いて五趣(五道)と称すこともある。初期仏教では、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上を五趣とし、修羅はなかった。つまり五趣の方が六道より古い概念とされる。これは当初、修羅(阿修羅)が、天部に含まれていたもので、大乗仏教になってから天部から修羅が派生して六道となった。したがって、これらを一括して五趣六道という。

 

 

歴史

仏教成立以前の古代インド思想を起源とし、原始仏教においてはさほど重大な意味を為さない。体系化が進行したのは後代と考えられる。

 

インド・中国起源ではないが、日本では11世紀ころ、六道の各々に配当された六地蔵が各所に祀られ、大いに庶民から信仰された。

 

六道 - Wikipedia

 

 

れらの世界へ私たちの先祖はどのような基準で行かされたのでしょうか?

 

皆さんはその基準を知っていますか?

 

次は天道に行く自身はありますか?

 

地獄道だったらどうしますか?

 

それともこの世で出家して、完全に「煩悩」を捨て去り、「悟り」を得て、「解脱」した状態になり、生きながらの「仏」になれますでしょうか?

 

お盆に、仏や僧や大勢の人たちに供養すれば、その功徳によって、多くのご先祖が苦しみから救われ、今生きている人も幸福を得ることができると昔から言い伝えで言われてきました。

 

仏や僧を供養すれば先祖が苦しみから救われ、今生きている私たちも幸福を得ることが本当にできるのでしょうか?

 

 

何回、お盆で供養すれば、その餓鬼道や地獄道に落ちている人が救われるのでしょうか?

 

 

一段階だけ上がるのでしょうか?

 

 

 

法蔵菩薩の修行年数、

 

阿弥陀仏のいた年数、

 

極楽浄土までの距離、

 

六道輪廻

 

すべてが曖昧ではないですか?

 

 

 

昔の人が信じるのは、仕方がないでしょう

 

しかし現代の我々がこれをまだ信じるには根拠が曖昧過ぎます。

 

 

このことに日本人が命をあずけるのは非常に危険です。

 

 

皆様も本気になって調べる必要があるのではないでしょうか?

 

使徒行伝 17章
1一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。
2パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、
3キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。
4ある人たちは納得がいって、パウロとシラスにしたがった。その中には、信心深いギリシヤ人が多数あり、貴婦人たちも少なくなかった。
5ところが、ユダヤ人たちは、それをねたんで、町をぶらついているならず者らを集めて暴動を起し、町を騒がせた。それからヤソンの家を襲い、ふたりを民衆の前にひっぱり出そうと、しきりに捜した。
6しかし、ふたりが見つからないので、ヤソンと兄弟たち数人を、市の当局者のところに引きずって行き、叫んで言った、「天下をかき回してきたこの人たちが、ここにもはいり込んでいます。
7その人たちをヤソンが自分の家に迎え入れました。この連中は、みなカイザルの詔勅にそむいて行動し、イエスという別の王がいるなどと言っています」。
8これを聞いて、群衆と市の当局者は不安に感じた。
9そして、ヤソンやほかの者たちから、保証金を取った上、彼らを釈放した。
10そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。
11ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
12そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。また、ギリシヤの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった。
13テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神の言を伝えていることを知り、そこにも押しかけてきて、群衆を煽動して騒がせた。
14そこで、兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して、海べまで行かせ、シラスとテモテとはベレヤに居残った。 15パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行き、テモテとシラスとになるべく早く来るようにとのパウロの伝言を受けて、帰った。
16さて、パウロアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。 17そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた。
18また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中のある者たちが言った、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」。また、ほかの者たちは、「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」と言った。パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていたからであった。
19そこで、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って、「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。
20君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ」と言った。
21いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである。
22そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。
23実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。 24この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
25また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、
26また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。
27こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
28われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。
29このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。
 
30神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
31神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。
32死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。
33こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
34しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった。その中には、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、また、その他の人々もいた。

 

hukuinn.hatenablog.com

hukuinn.hatenablog.com

f:id:yotutaka:20170515144033j:plain

私ができること What I can do

私は皆さんに福音を得るようにすすめています。

 

しかし私の力で皆さんに福音を得させることは私自身にはできません。

 

福音を得ることが出来るのは「神」からの一方的な「めぐみ」です。

 

そして皆さんが素直に神と共に生きる決心をする、神の元に立ち返る意志が伴わなければ福音を得ることはできません。

 

私ができることといえば

 

福音を伝えること、つまり、

 

『全ての人が神から離れ、背いていることを罪と認め、謝罪し、神のもとに立ち返ること。

 

そしてその創造主が全ての人の救済のために、神の御子であるイエスキリストが、人となってこの世に下り、私たち人の全ての罪の身代わりとして、十字架に架かって下さったこと、

そして墓に葬られ、

三日後に、創造主がイエスを復活させ、人の「死」を葬り去って下さった。

このことを信じる全ての人が、永遠の命が与えられ、救われる。』

 

この「福音」を皆様に伝えること。

 

創造主、イエスキリスト、聖霊が本当に居られることを皆さんにわかりやすく伝えること。

 

聖書をわかりやすく伝えること。

 

聖書が真実であることを伝えること

 

聖書の預言が現実と重なり、どの聖書箇所が現実に近づいているかを誤り無く伝え、紹介すること。 

 

以上のことを皆さんの前に紹介するだけです。

 

私には皆さんが神に立ち返り、福音を信じ、永遠の天国で再び皆様とお会いしたい希望はあります。

 

しかし、それを押し付けることはできません。

 

無理に信じ込ませる事もできません。

 

しかし「あいつから以前に福音を聞いたことがあった」 「確かにそう言っていた」 「あの話は本当だったんだ」という日が近いかもしれません。

 

今、私が皆さんの前に「福音」を伝えることは耳障りかもしれません。

 

ただ、

「こんな私がクリスチャンになった。」 

 

「聖書は真実です。」

 

「創造主、イエスキリストの存在は真実です。」と言っていた事が役に立つ日がくるかもしれません。

 

 

「創造主」 「御子イエスキリスト」 「聖霊」 と皆さん一人一人がつながること

 

「福音」を得ること

 

「聖書」と「祈り」を通じて、神とつながること

これが一番重要です。

 

これからの私も、ただただ、皆さんに紹介し、祈ること以外に私にはできることはありません。

 

f:id:yotutaka:20170522093005j:plain

 

osusowake.hatenablog.com

 

仏教とは 浄土宗とは 浄土真宗とは

日本人の一般的な人生の最期はお葬式をお坊さんにしていただくご家庭が多いのではないでしょうか? ということは日本人の家庭の大半は仏教を信じて、仏教のしきたりを守り続けているのではないでしょうか?

 

仏教といえば「お釈迦さま」、その後仏陀となられました。

 

仏教の開祖である「釈迦」は皆さんはどういう生涯を送り、どういう教えを説いて、今の皆さんにどういう関係があるのかご存知ですか?

 

まずはこの釈迦(紀元前560年~紀元前480年)の人生を見てみましょう。

 

釈迦 - Wikipedia

紀元前480年頃にインドの王国の王子として生まれました。

 

釈迦は王子として、生まれてからも何不自由なく裕福に暮らしていました。

 

幼少期から英才教育をうけ、16歳で結婚。

 

その後、男の子が生まれ。

 

29歳の時に出家します。

 

6年間の苦行をし、苦行は意味のないものだと悟り、苦行をやめます。

 

そして菩提樹の樹の下で「悟りを開くまではここを立たない」と誓いをたて、

 

その間に悪魔に襲われ、それに打ち勝ち悟りを開いたとされています。

 

そして釈迦の最後の教えは、有名な「自灯明・法灯明」の教えと言われています。

 

「身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。

 

自らを灯明とし、自らをより処として、他のものをより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とせずにいるのである。」と最後に弟子たちに伝えました。

 

つまり、自分の身体、感覚、心、法について観察し、理解し、そして全ての欲と自分の憂い、悩みを捨て去るように、自分自身で瞑想等により、心を静めて行く。

 

そして自分自身をよりどころとして、つまり誰にも頼らずに、法を灯明とする、つまり、世間にある、法を守るように生きていくことこそが大事であるということです。そうすれば「悟り」が開けるという教えです。

 

そして悟りを開いた人が「仏」になります。

 

釈迦は悟りを開いた後、「仏陀」と言われました。

 

皆さんはこのような「仏」になれますでしょうか?

 

自分自身をよりどころとし、自分の内側をひたすら観察し、欲や悩みが起きないように心を落ち着かせる。そして世の中にある法を守り続ける。

 

これは完全な「自己完結」ではないですか? 

 

これでは他者とのつながり、人間の思いやり、家族や友人や会社の人々との助け合い、愛などは全く関係していないのではないでしょうか?

 

釈迦は自分自身の悩みや憂いがあるために、悟りを得ようと妻を捨て、子供を捨て、出家しました。そして修行の末にこのような「悟り」を得、「仏」となりました。

 

我々庶民は、人が共存する社会のなかで仕事をし、家族を養い、子育てをして、家族と共に過ごしながら、このような出家することによって得た悟りを、我々、庶民が得ることはできないのではないでしょうか。

 

釈迦が家族を養い、働いた上でこの悟りを開いたなら、我々も同じ価値観を持った人間としてこの教えを聞く意味はあるでしょう。

 

しかし、家族を、子供を捨て、王子で働いた事のない人の教えを、

 

家族を育て、子供を慈しみ、社会で働く人々が聞いても釈迦の考え方や、精神とは違いますので実践することは難しいのではないでしょうか?

 

家族を捨て出家し、自分自身を追求することを第一とする人間でないと悟りは開けないのではないでしょうか?。

 

 

皆さんはどうお感じになりますか?

 

 

 

 

 

では極楽浄土とは一体どういうものなのでしょうか?

 

 

ごくらくじょうど【極楽浄土】

阿弥陀仏のいる世界。西方十万億土の彼方にあり、まったく苦しみのない理想郷で、今も阿弥陀仏が法を説いているとされる。阿弥陀仏を信じ、ひたすら念仏を唱えると、死後ここに迎えられるという。西方浄土。極楽世界。極楽界。極楽安養浄土。極楽。
 

kotobank.jp

www.koumyouzi.jp

 

 

ではこの阿弥陀仏とは一体なんでしょうか?

 

 

kotobank.jp

阿弥陀仏
あみだぶつ

 
大乗仏教における諸仏のなかでもっとも代表的な重要な仏。阿弥陀如来ともいい、この仏の信仰を中心として成立したのが浄土教である。阿弥陀という名は、もとインドにおいてはアミターユス(無限の寿命をもつ者。無量寿(むりょうじゅ))とアミターバ(無限の光明をもつ者。無量光)という二つのサンスクリット語で表されていたのであるが、それが中国に伝えられて、どちらも阿弥陀と音写された。
したがって、阿弥陀は単にアミタ(無量の意)を音写したものではなく、この二つの原名のいずれにも相当すると考えられる。

阿弥陀仏信仰を主題とする経典としては、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の「浄土三部経」がある。
無量寿経』によると、久遠の昔、世自在王(せじざいおう)仏が出現されたとき阿弥陀仏は、法蔵菩薩(ぼさつ)であったが、無上なる悟りを得ようと発心し、生きとし生ける者を救済するための本願として四十八願をたて、五劫(こう)つまり、216億年という途方もなく長い間修行を重ね、ついにその誓願と修行を成就して、いまから十劫というはるか以前に仏となった。この仏は阿弥陀仏とよばれ、ここより西方の十万億仏土を過ぎた極楽浄土において、現在も教えを説いているという。
このような阿弥陀仏とその浄土については、このほかにも多くの大乗経典に関説されており、その教えはインドからアジア全域に広く流布した。とくに中国、日本においては、念仏によって阿弥陀仏の浄土に往生して悟りを得ることを願う教えを浄土門と称し、また他力の教えともよび、仏教の一大系統を形成するに至った。
浄土宗、浄土真宗、融通(ゆうずう)念仏宗、時(じ)宗などの諸宗派はみなこの系統に属している。

『藤田宏達著『原始浄土思想の研究』(1970・岩波書店)』
浄土宗、浄土真宗ともに帰依する「阿弥陀仏」とはこういう悟った人、仏のことをいうのです。
「五劫(こう)という途方もなく長い間修行を重ね」とある5劫 1劫は43億2000万年とあります。
ではこの阿弥陀仏になる前の「法蔵菩薩」とは?

www.higashihonganji.or.jp

 遠い遠い昔の、そのまた遠い遠い昔、世自在王仏せじざいおうぶつという仏がおられました。その時、一人の国王がおられました。王は、その仏の教えをお聞きして、心からの喜びをいだかれたのです。
そして、自分も仏になって、世の人びとを悩みや苦しみから救いたいと願うようになられたのです。は、国を棄て、王位を捨て、世自在王仏のもとで出家して修行者となり、法蔵と名告なのられました。これが法蔵菩薩です。

www.higashihonganji.or.jp

世自在王仏 - Wikipedia

 

どうですか皆さん理解できましたでしょうか?
阿弥陀仏とは、遠い昔、王が国を捨て、出家して法蔵菩薩となられた。
その法蔵菩薩生きとし生ける者を救済するための本願として四十八願をたて、五劫(こう)という途方もなく長い間修行を重ね、ついにその誓願と修行を成就して、いまから十劫(432億年)というはるか以前に仏となった。
この仏は阿弥陀仏とよばれ、ここより西方の十万億仏土を過ぎた極楽浄土のこと。原語はスカーバティー、「楽のあるところ」の意)という世界(浄土)において、現在も教えを説いているという。
この「阿弥陀仏」を信じることができますか?
五劫(こう)という途方もなく長い間修行を重ねる。約216億年です。
阿弥陀仏とは、法蔵菩薩という元々、王であった人が、人を救うという願いを立て、そのための修行を216億年をやり終えた人、これが阿弥陀仏です。
つまり、人が自分自身を修行して、磨いて悟りを開いた「人」、つまり「仏」が人を救う、これが仏教の本質です。
そこに「神」という概念は一切ありません。
仏教とは、人が究極的に修行をして素晴らしく悟りを開いた人が「仏」です。
聖書の神、つまり創造主は、全ての物を創造した。当然、「人」もです。
そして、その現代の人もその神を忘れ、離れ、感謝せず、認識せずに生きることを「罪」だと語っています。
人が修行をして悟りを得たのが「仏」 
 
仏教ではその「仏」が人を救う
 
 
神が人を創造し、人が神から離れ自分の基準で勝手に生きることを罪という、
 
そして罪ある人を救済するために、
「神」が「人」となって、世にこられたのがイエスキリストであると聖書は語ります。
 
仏教と聖書の創造主、イエスキリストは、全くの逆、反対です。
 
人が仏となるのが仏教
 
 「神」が「人」になり、人を救うために犠牲になったのが、神の御子である、イエスキリストです。

 

 

 

 

浄土宗浄土真宗はひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えれば善人であれ、悪人であれ、全て極楽浄土に行けるという教えです。

 

では「南無阿弥陀仏」とはどういう意味なのでしょうか?

 

皆さんはご存知でしょうか?

 

jodo.or.jp

「南無」はナモーの音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマスの連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。

 

阿弥陀は、その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明 」と「アミターユス(無量の寿命)」に共通するアミタ(無量)のみを音写したもの。

 

すなわち南無阿弥陀仏とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。

南無阿弥陀仏 - Wikipedia

 

 

つまり、浄土宗 浄土真宗で最期を迎えた人はひたすら「南無阿弥陀仏」と拝み、先ほど説明した通り、遠い、遠い昔に王であった法蔵菩薩であった方が5劫という途方もない修行を終えられて、今も説法を説いておられる阿弥陀仏が造った極楽浄土に行く。ということです。

 

そしてその極楽浄土で今も阿弥陀仏が教えを説いているそうです。

 

 

 

www.gotquestions.org

 

お釈迦様のご生涯 | 法華宗真門流

 

 

私は仏教、浄土宗、浄土真宗を否定も肯定もしません。
 

私には仏教は読めば読むほど、わからなくなります。とらえどころがありません、難解です。難しいのです。
聖書は理解できます。読めば読むほど理解が深まります。
聖書の創造主とイエスキリストが語る最も大切な「掟」とは
「愛」です。

マタイによる福音書 22

「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。 これがいちばん大切な、第一の掟である。 第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」

 

これが一番大切な掟だとイエスキリストは言われました。

 

全ての人が神に立ち返り、神を愛し、全ての人が自分を愛するように隣り人を愛しなさいと。

 

聖書の教えは明確です。

 

そして神が人を愛するがゆえにその人の内に愛がある。

 

 

ヨハネの手紙4章7

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 神はそのひとり子を世につかわし、彼(御子・イエスキリスト)によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。 神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。 わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。 もし人が、エスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。

 

 

様が、極楽浄土に行きたいのであれば、しっかりと阿弥陀仏仏教、浄土宗、浄土真宗について学んでください。

 

学ばないと極楽浄土には行くことができません。

 

そして「南無阿弥陀仏」と唱え続けなければなりません。

 

 

 

書の神を信じるのであれば、明確です。

 

この全てのもの、宇宙、地球にある植物や動物、人間など含めた全ての物を創造したのは、創造主がなされました。

 

そしてこの創造主のもとに人がもう一度立ち返り、神と共に生きる決心をし、

神の御子を人として、イエスキリストとして、全ての人を救うために、全ての罪のある人々の身代わりとして十字架に架かられた

そして墓に葬られ、創造主がイエスキリストを復活させられ、イエスキリストが私たち全ての人の主(神)であると信じ、口で言い表す人は全て救われます。

 

 

 

ローマ人への手紙10章9節

兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。 モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。 しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

 

 

コリント人への第一の手紙 第15章
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、 ケパ(ペトロ)に現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。 そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。 また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのか。 兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。 もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。 べての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。 すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
 
 
使徒行伝 17章
1一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。
2パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、
3キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。
4ある人たちは納得がいって、パウロとシラスにしたがった。その中には、信心深いギリシヤ人が多数あり、貴婦人たちも少なくなかった。
5ところが、ユダヤ人たちは、それをねたんで、町をぶらついているならず者らを集めて暴動を起し、町を騒がせた。それからヤソンの家を襲い、ふたりを民衆の前にひっぱり出そうと、しきりに捜した。
6しかし、ふたりが見つからないので、ヤソンと兄弟たち数人を、市の当局者のところに引きずって行き、叫んで言った、「天下をかき回してきたこの人たちが、ここにもはいり込んでいます。
7その人たちをヤソンが自分の家に迎え入れました。この連中は、みなカイザルの詔勅にそむいて行動し、イエスという別の王がいるなどと言っています」。
8これを聞いて、群衆と市の当局者は不安に感じた。
9そして、ヤソンやほかの者たちから、保証金を取った上、彼らを釈放した。
10そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。
11ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
12そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。また、ギリシヤの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった。
13テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神の言を伝えていることを知り、そこにも押しかけてきて、群衆を煽動して騒がせた。
14そこで、兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して、海べまで行かせ、シラスとテモテとはベレヤに居残った。 15パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行き、テモテとシラスとになるべく早く来るようにとのパウロの伝言を受けて、帰った。
16さて、パウロアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。 17そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた。
18また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中のある者たちが言った、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」。また、ほかの者たちは、「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」と言った。パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていたからであった。
19そこで、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って、「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。
20君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ」と言った。
21いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである。
22そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。
23実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。 24この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
25また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、
26また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。
27こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
28われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。
29このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。
 
30神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
31神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。
32死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。
33こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
34しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった。その中には、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、また、その他の人々もいた。
 

f:id:yotutaka:20170419131529j:plain


 

 

 

主を恐れることは、知恵の初め。

日は仕事中に受付で働いていただいている女性が

「このポスターが前に落ちていました、今日は風が強いので飛んできたのですかね~」

と、ふとそのポスターを見てみると「献血にご協力ください 赤十字血液センター

 

そのポスターの右上に「人間を救うのは、人間だ。」と書いてありました。

 

確かに、事故や手術などで、血液が足りない際に輸血によって人を救うという意味で書いておられると思います。

 

輸血や手術によって一時的には命は助かります。

 

しかしその方が本当の意味で救われる、つまり神に立ち返り、神から赦しをいただき、

神の御子であるイエスキリストが私の主であると信じ、言い表す。この「福音」を得、永遠の命を与えられることが必要です。

 

「人間を救うのは、人間だ。」これは献血の際に用いられているので問題がありませんが、このことを「人間を救うのは、人間だ、神なんかいない」となれば問題となります。

 

今、日本では「無神論」つまり、神を信じない、「神さまなんていない」と思っている方も多いのではないでしょうか?

 

かつての私がそうでした。

 

最近ではプロ野球の世界で良くヒットを打つ選手や素晴らしい投手には「神ってる」、つまり「神がかっている」という事の表現で「神ってる」と言います。

 

低迷しているチームを優勝に導いた成績の良かった選手には「この選手は救世主だー!」と言ったりもします。

 

こういう「神ってる」や「救世主」という言葉を簡単に、軽く口にする。またそのことを当たり前のように、流行語のように使う世間の流れに危機感を覚えます。

 

もちろん私がクリスチャンになる以前、2年前なら「お前、神ってんなー!」「君はこの会社の救世主や!」などと軽々しく使っていたでしょう。

 

本当の意味を知ったなら軽々しくは言えません。

 

人は神になることはできません。この世の救い主になることなどできません。

 

この世を救うことが出来るのはイエスキリストだけです。

 

箴言9章10節

「主を恐れることは、知恵の初め。聖なる方を知ることは悟りである。

 

詩篇111篇10節 

主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。
主の誉れは永遠に堅く立つ。

 

書には神を恐れることで本当の知恵を得ることが出来る。

 

聖なる方、つまり主を知ることで、悟りを得、良い明察を得ることが出来ることが書かれています。

 

創造主である神を本当の意味で恐れなければ、知恵、真実、真理にはたどり着かないのです。

 

 

皆様は神を恐れていますでしょうか?

 

 

f:id:yotutaka:20170708130113j:plain

 

 

hukuinn.hatenablog.com

 

hukuinn.hatenablog.com

hukuinn.hatenablog.comhttp://hukuinn.hatenablog.com/entry/2017/04/14/122318

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

聖書

  • Life.Church
  • 辞書/辞典/その他
  • 無料

 

play.google.com

hukuinn.hatenablog.com

hukuinn.hatenablog.com

hukuinn.hatenablog.com