世界一簡単な福音の受け取り方 How to receive the simplest gospel in the world

このブログを読んでいただける皆様へ福音が伝わり、イエス・キリストの御名により、神の救いとめぐみが皆様にあたえられますように

人は種を0から作ることはできない

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創世記第1章9

神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。

 

皆様は考えたことがあるでしょうか?

 

一番初めの種がどうやってできたのか?

 

ひまわりの花は、一つの種から始まり、そのひまわりが成長し、また種を作り、地にその種がまかれ、ひまわりの数が増えます。

では一体、第一番目のひまわりはどのようにして生まれたのでしょうか?

今の現代の技術では、たくさんのひまわりの種を作ることは出来るでしょう。

しかし、なにもないところから、素材を組み合わせ、ひまわりの種を作り、その種からひまわりとして成長させ、またたくさんのひまわりの種を作ることができる種子を創造することはできません。

クローンなどの技術で複製し、種を増やすことはできても、ゼロから細胞を組み合わせて、一つの種から花を咲かせ、自ら成長し、種を作成をすることはできません。

それは、ひまわりだけの話ではなく、全ての生物、全ての生き物にも当てはまります。

そもそも一つの単細胞生物さえ、人は無から一つの細胞を作り、生かすことはできません。生物の中にある核、核の中にあるDNA DNAの中にある原子 分子 素粒子それを組み込んで自動的に生物として生かすことは人にはできません。

 

 

全ては創造主が創造した物を使って生活しているに過ぎないのです。

 

この全ての元を創造された創造主に人は感謝する必要があるのではないでしょうか?

 

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「光」についての神学的瞑想 - 牧師の書斎

 

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救いの邪魔になっている要素の一つ、進化論

たち、人間はこの世に生まれます。

今までの人類は進化してきたのでしょうか?

そもそも進化とは何でしょうか?

進んで、化けると書いて「進化」

人の寿命は長くても100年程度

 

生物がこの世に対応するために前進的に肉体や形態の変化を積み重ねることを「進化」とするならば、全ての人は「死にたくない」、「寿命を延ばしたい」、「病気になりたくない」、と強烈に願い、求め、何千年も前の人からそう願い続けて、「寿命が延びる進化」、「年老いない進化」「病気にかからない進化」を求めてきたのではないでしょうか?

特に、この世で順風満帆な人ほど「死にたくない!」と強く願うのではないでしょうか?

それでも人は病気になり、老いて、動けなくなり、長くても100年程度で「死」を迎えます。

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このガラパゴスゾウガメの寿命は200年くらいだそうです。

この亀は長く生きたいと強く願って進化し、寿命が伸びたのでしょうか?

人が一番願う「進化」。それは死なないことではないでしょうか?

次に老いずに健康な体で過ごすことではないでしょうか?

 

ところで、私たち日本人は学校の教育過程でダーウィンの進化論を教えられたと思います。詳しいことは覚えていませんが、猿から人に進化したという絵は頭に残っています。

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現在、科学の領域における仮説の多くは、チャールズ・ダーウィンの進化論を適用することによって、おそらく最初に単純で原始的な生命が生まれ、より複雑な生命へと変化することが繰り返されたのだろうと推察している。(Wikipedia参照)

生命の起源 - Wikipedia

 

私も以前は生命の始まりは、海の中から単細胞生物が生まれ、微生物になり、魚類に、両生類に、爬虫類に、哺乳類、猿人から人類へと、その進化の原因として突然変異の繰り返しで、このような様々な生き物に枝分かれして、現在のような世界になっていると思っていました。

二足歩行が進化の鍵ならば、二足歩行の訓練をし続けた犬が進化するのか確認してみたいとも思ってしまいますが、さておき、

 

第一番目に発生した生物の始まりは誰も見たことがないので証明することはできません、ましてや宇宙の始まりの仮説はいくらあっても、現実に見た人も、証明することもできませんし、再現することもできません。現在発表されている理論は限りなく信ぴょう性のある論理だとは思いますが。

 

化論が間違っているということではなく、進化論を信じて生きる人は、創造主を知ることがない、なぜなら「人は、海から微生物の進化の末に今、人が生きている」という考えでは、人は神から創造された尊いものであると思えないからです。あるいは生物、植物全てのものは自然発生したものであって、神が全てを創造したという発想にならない。これが進化論を信じる問題であると思います。

 

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 聖書を読む。あるいは聖書の話を聞いて理解しなければ、神が人を創造したという事実を本当に信じることができません。

進化論を信じることは、人から神を遠ざけるだけではなく、人が神を理解する際にも大きな妨げ、妨害、邪魔になっているということが問題です。

進化論にはたくさんの研究者が現在もいますが、その方たちも論理は組み立てられますが、再現はできません。ましてや素人にはこのような論理や論文などの詳しいところまで理解できません。そして現在では150年前のダーウィンの進化論の信ぴょう性にも疑いがかかっています。

 

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 神が人を創造されたことが書かれているのが聖書です。

神が何のために人を創造したのかも書かれています。

それは神と人とが愛のある従順な関係を築くために創造されたと書かれています。

そして神から離れてしまったのが現在の人であることが書かれています。そしてその離れていることが「罪」であるとも

 

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以下は創世記第1章です。 旧約聖書のまさに始まりの一節です。

これは約3500年前に書かれたものです。

心を静かにして読んで頂ければと思います。

 

 

創世記第1章

はじめに神は天と地とを創造された。 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。 夕となり、また朝となった。第三日である。 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、 天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。 神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、 昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。 夕となり、また朝となった。第四日である。 神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。 神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。 神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。 夕となり、また朝となった。第五日である。 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。 神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

 

創世記第2章

こうして天と地と、その万象とが完成した。 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。 その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。 第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

 

 創世記3章

さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

 

 

 

 私たちは本当に微生物から発生したのでしょうか?

それならば人は最後に土に帰るだけなのではないでしょうか?

 

聖書は創造主が神に似せて人を創造したと書かれています。

そして全ての人を創造主は愛していると書いています。

そして今、人を救うために、創造主のもとに、イエスキリストのもとに引き戻すために「福音」が世界中に伝えられているのです。

 

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1. 進化論の限界~生命は創造されたのか|聖書の教え | True Ark Bible

 

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救いの確信がない方へ To people who are not sure of salvation

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たしは本当に今、神様から救われているんだろうか?

神である創造主と神の御子であるイエスキリストを信じているけれども、このような心構えや生活態度でいいのだろうか?

不安になることはありませんか?

 

神からの救いは福音にしかありません。

 

福音とは

まず第一に私たち人間を創造された創造主が居られることを信じることです。

この宇宙や地球にあるもの全てを創造された創造主

そして創造主の事を知らず、感謝せず、自分本位に生きてきたことを罪だと素直な気持ちで認めることです。

 

そうですよね、この世に酸素がなければすぐにでも人間は死んでしまいます。

 

酸素や水や食物や全ての元、種、第一の原因を創造し、その創造主がつくられたものを人間は使ってやっと生きることが出来ています。

それを今まで知らずに、自分が仕事をして稼いだからご飯が食べれるんだ!

私が全ての家事をしているから家族は生きていけるんだ!

頑張っている皆さんもすごいのですが

まず人間が生きるための物、環境、など全てを創造した創造主あってこそだと心から認め、感謝してください。そしてこれからこのことを忘れず、神様に感謝してください。

 

そして、人は生まれてくる際には創造主を知って生まれてくる人は一人もいません。

ですので全ての人はこの世で創造主から離れ、自分中心に生きるという罪を持っています。

その全ての人を創造主が救いたいとお思いになり、その解決策として世に送られたのが神(創造主)の御子です。

神の御子がこの世にイエスキリストとして人となられたのです。

ですのでイエスキリストは本来、人ではありません。神が人となられたのです。

そして創造主の御子です。例えが悪いかもしれません、厳密な意味ではありませんが、人間の親と子の関係に近いと思います。

 

そしてその神の御子であるイエスキリストが全ての人の罪の身代わりとして、約2000年前に現実に、十字架にかかり、墓に葬られ、創造主である神がイエスキリストを三日後に復活させられた。この歴史的事実を信じ、人の前で公にイエスキリストが私たちの主であることを言い表すことで全ての人は救われます。

 

これが福音です。

 

 

まとめますと

創造主に罪を認め感謝し、

エスキリストが全ての人のために

十字架にかかり

墓に葬られ

3日後に創造主によって復活させられた

このことを信じ、公にイエスキリストが神であり、私たちの主(神)であると言い表すことで救われます。

これで救われるのです。

 

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エスキリストが私たちの神であり主であると言い表すには神から与えられた聖霊の働きがなければ言い表すことができません。

この神のご性質である聖霊が福音を得たあとの皆様を導いていただけます。

福音を得たはじめの時期は実感できないかもしれませんが、

聖書が読みたくなったり、

気持ちが優しくなったり、神様に感謝の気持ちが自然と持てるようになったり、

世の中の見方が変わったり、怒ることが少なくなったり、いろんなことが少しづつ変わっていきます。

 

福音を得たのであれば救いから漏れることはありませんが

救いの確信がない方に最もおすすめするのは、少しでも神様に祈ることをおすすめします。

 

救いの確信がなければ、「救いの確信が得られないので、救いの確信が得られるようにしてくださいと」

 

もちろん神様の声は直接聞こえませんが、神様は皆さんの切実な思いを聞き入れ、願いを聞いていただけます。現実を通して、心を通して神の御心に合うことは叶えていただけます。

そして毎日願い、祈り続けるうちに救いの確信は得られます。

 

神は福音を得た方との交流を喜ばれます。

それは祈ることです。

祈ることが交流となります。

神への感謝と祈りを捧げるならば神は、より深くみなさまのことを理解されるでしょう。

自分のことを祈ることも大切ですが、

まだ福音を得ていない方が、福音を得ることができるように神へ祈ることが必要です。

福音を得てみると、周りにまだ福音を得ていない方がいることがわかります。

福音を得ていない人が福音を得るには、福音を得ているクリスチャンの祈りがその人には必要となります。

 

そしてそのご本人が神に立ち返る決心をして福音を得、神からの救いがあるのです。

 

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コリント人への第一の手紙 第15章
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、 ケパ(ペトロ)に現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。 そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。 また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのか。 兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。 もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。 べての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。 すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

 

 

テサロニケ人への手紙第一 5章

 兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。 あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。 しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。 だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。 しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。 神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。 だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。 兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、 彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。 御霊を消してはいけない。 預言を軽んじてはならない。 すべてのものを識別して、良いものを守り、 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。

 

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聖書はすごい!面白い! The Bible is amazing! interesting!

今、現在の状況は聖書に書かれている預言が非常に早まっています。

そのこともあって皆さんに早く福音を得ていただきたい気持ちが強すぎて

深刻な話ばかりをしてきました。

 

今回は深刻な話ばかりでなく聖書の面白さ すばらしさ 驚愕する ことをお伝えしたいと思います。

 

ころで皆さんは好きな歴史上の人物はいらっしゃいませんか?

 

日本人なら、例えば幕末の志士 坂本龍馬は好きな方も多いのではないでしょうか?

若くして日本のために命懸けで頑張ってくれたので好きだという方

あるいは土佐藩出身で同郷であるから誇りに思っている方

同時代に生きていた祖先が代々坂本龍馬の素晴らしさを伝え聞いて好きな方

テレビで坂本龍馬の歴史を学んで好きになった方

坂本龍馬のことが書かれた小説を読んで好きになった方。

現在坂本竜馬が日本人が愛されるのは、坂本龍馬が何をしたのかよく知っているから好きということになるのではないでしょうか?

 

小説「竜馬がゆく司馬遼太郎さんが書かれましたが、私も遠い昔に読みました。

土佐弁で竜馬が本当に話しているように感じて小説に引き込まれました。

本当に竜馬の心の内を見たかのように、

幼少時代に気の弱かった竜馬が姉に鍛えられ、話している姿も目に浮かぶようでした。

竜馬がゆく」は本当に面白く、あっとゆう間に全て読んだと思います。

おそらく作者の司馬さんは相当な資料を集め、当時の歴史の背景を学び、研究に研究を重ねて、まさにその当時の幕末の志士の気持ちになったかのように書かれたためにこんなにも日本人に愛される小説、坂本龍馬のイメージが作られたのではないでしょうか。

しかし、小説で語られる坂本龍馬と、現実に日常生活を過ごした坂本龍馬は一致しているのでしょうか?

作者である司馬さんは時代が違いますので、その時代の実際の現状を全て理解するのは不可能ではないでしょうか?もちろん坂本龍馬とは実際に話すことはできなかったのですから。

もちろん小説ですので脚色や作者のイメージが含まれるのではないでしょうか?

私も好きですよ「竜馬がゆく

そして坂本龍馬

 

しかし、もっと好きな本があります、

お分かりだと思いますが聖書です!

聖書は全てイエスキリストについて書かれています。

旧約聖書はイエスキリストが世に来られる1500年前から書かれ、

エスキリストについて書いていることがわかります。

生まれる前からどこの家系で、どこの場所で、どういうことをして、最後に人々の罪を背負って十字架にかかり、三日後に復活することが書かれています。

これだけでもすごいのですが、

しかも新約聖書には4つの福音書というものがあります。

エスキリストと共に過ごした弟子は12人いますがそのうちのマタイ ルカ マルコ ヨハネの4人の弟子がそれぞれが福音書を書きました。

実際に見たこと、目の前で起こったこと、そして実際にイエスキリストが語られたそのままの言葉が正確に書き記されています。

ですのでイエスキリストが実際に行った、教えた、語ったことを弟子である4人が各自で書いた福音書が4つ残されています。

 

 歴史小説は作者が過去の残されたものだけの資料、しかもそれが本物かどうか確認しようがない資料も含めた上で、作者がその当時の主人公の気持ちや動きを推理して書いたものですが、

 

聖書は約2000年前に実際に目の前で起こったことを、見たままに、それぞれ4人の別の作者が同じ内容で書き記しています。それゆえにその真実性、その信ぴょう性があります。

そしてその主人公であるイエスキリストが話した言葉がそのまま伝えられています。

つまりは2000年前のイエスキリストが人々に教え、語った言葉、その実際の声が聖書を開き読むことで聞くことが出来るのです!

 

いやー! すごいですよ聖書は! 神が作ったこの聖書は! こんな本が人間に考えられるわけがありません! しかも何回読んでも飽きません! 私は毎日読んでいます。 少し読んでも新たな発見が! 少し読めば今の私に必要なことが! 少し読めば今のニュースと関係していることが 読めば読むほど神の愛情がわかり、読めば読むほどイエスキリストのことがわかり、読めば読むほど聖霊の働きとともに聖書の奥深さがわかります。しかも底なしの奥深さです! 「すごい!!!」としか言いようがありません!

 

しかもいいですか。聖書は現実とつながっていますから

皆さんも登場人物なのですよ!!!!!!

 

聖書の終りは、はっきりと書かれています。

今がどの時代であるかも、はっきりわかります。

 

しかし現実はまだ終わっていません。

これから聖書と現実が重なり合って完結を迎えていきます。

竜馬がゆく」を読まなくても失うものは何もありませんが、

聖書を読まなければ永遠の命を失うのです。

 

聖書は、現実は、その登場人物である、現代の人それぞれが、主人公であるイエスキリストを信じ、主人公であるイエスキリストの言葉を守り、最後に主人公であるイエスキリストに会うことができるのが聖書の最大の真実です。

恋愛小説で例えるなら離ればなれになっていた男女が苦難の末に巡り会うような最高潮の場面です。聖書ではイエスキリストを花婿 イエスキリストを信じる人を花嫁に例えます。

ですので皆さんはこれから聖書を読み福音を得ることで、この、主人公であるイエスキリストに会うことができるのです!

最後の結末はわかっています。イエスキリストを信じたものはハッピーエンド!

そして永遠の命! 永遠の天国です!

 

一方、聖書を読まず、イエスキリストを信じず、神に頼らず、神の創造した地球で、自分の力だけで生きよう、あるいは悪と手を組み繁栄しようとするもの、悪に利用されるもの、悪に手を貸すもの、神でないものに感謝し、神でないものに仕えているもの、神でないものを間違えて拝んでいるもの、真の神に感謝しない人々は、最後に滅ぼされます。

 

後のページに近づいています。

聖書は読み始めると読みたくなります。

読み始めることが大切です。

この世で何よりも素晴らしく、最も面白く、最も感動し、愛を知り、厳しさを知り、素直さを学び、従順を学び、神と神であるイエスキリストを知る本が聖書です。

 

私の一番のおすすめの本です!

世界でダントツ1位の総発行部数です!

4000億冊!

 

どうか皆様が永遠のハッピーを得られるようにお祈り申し上げます。

 

 

 新約聖書の最後の一文です。

 

ヨハネの黙示録22章20

以上すべてを証する方が、言われる。「然(しか)り、わたしはすぐに来る。」

アーメン、主イエスよ、来てください。

主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

 

 

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旧約聖書の中のイエス

 

 

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なぜこのブログを書くのか Why write this blog

ぜこのブログを書くのか。

 

救われていない人が周りにいるからです。

 

妻や、両親や親族 兄弟とその子供達 妻の両親や親族 その兄弟とその子供達

私の友人達 お世話になった先輩方、同僚の方、共に仕事をした方々

現在の仕事に関わるすべての人々

私の人生に関わったすべての人々

皆さんがいなければ、現在の私にはならなかったでしょう。

その今までお世話になっている人が

死ぬまでに神に立ち返らなければ、永遠に地獄に落とされることを黙っていられるでしょうか?

 

これから大艱難時代に近づき、神を信じない人々には、大艱難を通じて神を信じるかどうかの選択を迫られる大きな苦難が待っていることを黙っていられるでしょうか?

 

どうしても、私は、皆さんにそのような苦難、神と共に住まない永遠の地獄に行って欲しくはありません。

 

もし私が皆さんと逆の立場だったら、

「大艱難時代や、あるいは死後に神の基準で人生の全てを裁かれ、永遠の地獄に落とされたなら、なぜもっとあの時しっかりと聖書が事実であると教えてくれなかったのか!」

「なぜもっと神が本当に存在し、人生で偽りの神を信じていたものは永遠の地獄に落ちることを伝えてくれなかったのか!」

「こんなに苦しい思いをするなら、なぜもっと早くに

神が存在し、神が全てを創造した世界で神に感謝する事が大切で、

この世界で神に立ち返り、神の御心を行うことが天国に通じることを教えてくれなかったのか!」

と教えてくれなかったことを恨むでしょう。

 

そうならないためにも、私は伝えているのです。

そのために福音を得ていただくことを願っているのです。

 

皆様が福音を得て真実を知ったならば、周りの人が知らなければ同じように伝えると思います。

 

 

実は全て聖書に書いています。

なぜなら、真の神が人に書かせたからです。

神に立ち返り、聖書を読み、イエスキリストが神であり、私たちの主であると人に言い表すことで救われ、神と共に住む永遠の命が与えられます。

 

私も皆さんのように神の存在に気づかない一人でした。

 

神に気づくのがそんなに偉いのか?

全く偉くありません。

 

神に気づいていないことがそんなに重大なことなのか?

重大です!皆さんの命に関わる問題です。

 

福音は神からの一方的な恵みです。

 

しかし、神に立ち返る決心がない方には与えられません。

神のご性質は完全なる愛です。全くの闇がありません。

その神に立ち返る決心をした方に永遠の命が与えられます。

 

そんなことが本当なのか!、信じられない!という気持ちはわかります。

 

しかし、聖書を読み、神を信じるならば、理解できます。

 

今、世界中は全てが便利になり、

神などいなくても人間の発展で全てがコントロールできると、勘違いをしてしまいそうな世の中です。

 

しかし、地球を中心に太陽やすべての宇宙のバランスをコントロールし、すべての権利と支配はすべての物を創造した創造主の力です。

 

大艱難時代はすべての悪、悪を行う者、神を信じない全ての人々から、神の所有地を取り返しにきます。

 

それが大艱難時代の最後に来る、神であり、神の御子であるイエスキリストの再臨です。

 

そして悪や神を信じないものは全て滅ぼされます。

 

神に立ち返る決心をし、聖書を読むならば、イエスキリストが神であり、神の御子であることがわかります。

 

実際に聖書の預言と現実がはっきりと一致していることがわかります。

 

今は、本当に聖書の大艱難時代前です。

 

皆さんが大変忙しい毎日を送られているのはわかります。

 

このブログは皆さんが理解していただけるように出来るだけ簡単に書いています。

 

聖書の理解が難しい部分があれば聞いてください。

 

 

はっきりと言います。

当然、今も創造主は居られます。

神の御子であるイエスキリストも居られます。

神のご性質である聖霊も居られます。

 

神に立ち返る、神と共に生きる決心をしてください。

神が人間に与えた聖書を読む決心をしてください。

そして神であり神の御子であるイエスキリストが私たちの主であることを信じる決心をしてください。

 

私は皆さんが福音を得て神のもとに立ち返り、私たちの主であるイエスキリストと共に生きていただきたいのです。

 

そうすれば皆さんと共に神が統治する天国、御国で永遠に過ごすことが出来るからです。

 

 

 

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神の御心

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神は、全ての人を神と共に永遠に過ごす天国に入れて救いたい

 

全ての人々は、神が呼んでいることを知る

 

そして人自身が、神に応じ、神に心から立ち返る意思を持つ

 

その決意により、神の性質である聖霊が皆様の内に与えられ、住まわれる。

 

聖霊の導きにより、聖書を読み、聖書の中にある奥義を聖霊が理解させてくれる。

 

聖霊の導きにより、創造主、神の御子イエスキリスト、聖霊の関係が理解できる。

 

エスキリストが神であり、神の御子であり、神が人となって、イエスキリストとして来てくださったことが分かる。

 

エスキリストが全ての人の罪の身代わりのために、十字架にかかり墓に葬られ、三日後に復活したことが、聖霊の働きにより信じることができる。

 

エスキリストが私たち全ての人の神であり主であることを告白することができる。

 

これが福音です。

 

福音を得たものは救われます。

 

その時点で永遠の命が与えられます。肉体が滅びても栄光の体に変えられます。

 

神とイエスキリストと聖霊、過去の神、イエスキリストにある方々と共に住む永遠の御国に住むことができます。

 

福音を得たものは日々、神への祈りにより、神との関係を築きます。

 

聖書の御言葉を守り、聖霊の導きにより、日々、イエスキリストに似た者に変えられます。

 

福音を得た方には、まだ福音を得ていない人々に福音を宣べ伝える使命があります。

 

それは、神が、全ての人を神と共に永遠に過ごす天国に入れて救いたいという御心が行われるために。

 

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再臨と終末預言 - 牧師の書斎

 

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大宣教命令とは

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エスキリストが十字架に架けられ、墓に葬られ、三日後に神がイエスキリストを復活させられたあとに、弟子たちに伝えたことが大宣教命令です。

 

マタイの福音書28章

さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。 そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。 女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。 祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、 「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。 万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。 そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。 エスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 

 

マルコによる福音書16章

さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。 そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。 そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。 ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。 墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。 するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。 今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。 女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。〔 週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。 マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。 彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。 12この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。 このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。 その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。 信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。 主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕

 

 

ルカによる福音書24節

週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。 ところが、石が墓からころがしてあるので、 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。 そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。 すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。 そこで女たちはその言葉を思い出し、 墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。 この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。 ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。〔 ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。〕 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。 エスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、 エスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、 主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕 彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。 そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔 こう言って、手と足とをお見せになった。〕 彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。 彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、 エスはそれを取って、みんなの前で食べられた。 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。 あなたがたは、これらの事の証人である。 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。 それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕 彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。

 

ヨハネによる福音書21節

そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。 エスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。 エスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。 エスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。 エスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。 エスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。 エスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。 エスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。 ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。 ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。 エスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。 こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。 これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。 エスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。

 

以上の福音書

マタイ マルコ ルカ ヨハネ全てはイエスキリストの復活の証人です。

現実に復活後のイエスキリストに会い、話し、大宣教命令を受けています。

ヨハネ以外の12使徒は全て殉教です。

口裏を合わせてキリスト教を広めることなどありえるでしょうか?

全ての福音書の話が偽りでありえるでしょうか?

弟子たちが拷問を受ける中でイエスキリストの復活なしに殉教に至るまで信じ抜くことが出来るでしょうか?

しかもイエスキリストが十字架にかかる前には全ての弟子は裏切りました。

この事実があったのはおよそ2000年前です。

日本ではまだ弥生時代です。

卑弥呼邪馬台国があったと言われているのは紀元3世紀ごろですので、これ以前の出来事です。

福音を世界中に宣べ伝える この大宣教命令によって現在まで世界中の言語に翻訳され、現在まで4000億冊発行されて 22億人 世界の30%以上の人々がキリスト教徒となっています。

 

全ては神から始まり、人が創造され、人が自由意思で神から離れ、その救済のために

神であり、神の御子が人として、イエスキリストとして、全ての人を救うためにこの世に下られ、そのイエスキリストの十字架による死、墓に葬られ、三日後に創造主である神に復活させられた、この事実、真実を信じる者全ての人が救われる。この福音を信じ、その信じた人がまだ福音を知らない人に福音を広げていくこと、これが神であるイエスキリストが使徒に命じた大宣教命令です。

 

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