世界一簡単な福音の受け取り方 How to receive the simplest gospel in the world

このブログを読んでいただける皆様へ福音が伝わり、イエス・キリストの御名により、神の救いとめぐみが皆様にあたえられますように

私ができること What I can do

私は皆さんに福音を得るようにすすめています。

 

しかし私の力で皆さんに福音を得させることは私自身にはできません。

 

福音を得ることが出来るのは「神」からの一方的な「めぐみ」です。

 

そして皆さんが素直に神と共に生きる決心をする、神の元に立ち返る意志が伴わなければ福音を得ることはできません。

 

私ができることといえば

 

福音を伝えること、つまり、

 

『全ての人が神から離れ、背いていることを罪と認め、謝罪し、神のもとに立ち返ること。

 

そしてその創造主が全ての人の救済のために、神の御子であるイエスキリストが、人となってこの世に下り、私たち人の全ての罪の身代わりとして、十字架に架かって下さったこと、

そして墓に葬られ、

三日後に、創造主がイエスを復活させ、人の「死」を葬り去って下さった。

このことを信じる全ての人が、永遠の命が与えられ、救われる。』

 

この「福音」を皆様に伝えること。

 

創造主、イエスキリスト、聖霊が本当に居られることを皆さんにわかりやすく伝えること。

 

聖書をわかりやすく伝えること。

 

聖書が真実であることを伝えること

 

聖書の預言が現実と重なり、どの聖書箇所が現実に近づいているかを誤り無く伝え、紹介すること。 

 

以上のことを皆さんの前に紹介するだけです。

 

私には皆さんが神に立ち返り、福音を信じ、永遠の天国で再び皆様とお会いしたい希望はあります。

 

しかし、それを押し付けることはできません。

 

無理に信じ込ませる事もできません。

 

しかし「あいつから以前に福音を聞いたことがあった」 「確かにそう言っていた」 「あの話は本当だったんだ」という日が近いかもしれません。

 

今、私が皆さんの前に「福音」を伝えることは耳障りかもしれません。

 

ただ、

「こんな私がクリスチャンになった。」 

 

「聖書は真実です。」

 

「創造主、イエスキリストの存在は真実です。」と言っていた事が役に立つ日がくるかもしれません。

 

 

「創造主」 「御子イエスキリスト」 「聖霊」 と皆さん一人一人がつながること

 

「福音」を得ること

 

「聖書」と「祈り」を通じて、神とつながること

これが一番重要です。

 

これからの私も、ただただ、皆さんに紹介し、祈ること以外に私にはできることはありません。

 

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仏教とは 浄土宗とは 浄土真宗とは

日本人の一般的な人生の最期はお葬式をお坊さんにしていただくご家庭が多いのではないでしょうか? ということは日本人の家庭の大半は仏教を信じて、仏教のしきたりを守り続けているのではないでしょうか?

 

仏教といえば「お釈迦さま」、その後仏陀となられました。

 

仏教の開祖である「釈迦」は皆さんはどういう生涯を送り、どういう教えを説いて、今の皆さんにどういう関係があるのかご存知ですか?

 

まずはこの釈迦の人生を見てみましょう。

 

釈迦 - Wikipedia

紀元前600年頃にインドの王国の王子として生まれました。

 

釈迦は王子として、生まれてからも何不自由なく裕福に暮らしていました。

 

幼少期から英才教育をうけ、16歳で結婚。

 

その後、男の子が生まれ。

 

29歳の時に出家します。

 

6年間の苦行をし、苦行は意味のないものだと悟り、苦行をやめます。

 

そして菩提樹の樹の下で「悟りを開くまではここを立たない」と誓いをたて、

 

その間に悪魔に襲われ、それに打ち勝ち悟りを開いたとされています。

 

そして釈迦の最後の教えは、有名な「自灯明・法灯明」の教えと言われています。

 

「身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。

 

自らを灯明とし、自らをより処として、他のものをより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とせずにいるのである。」と最後に弟子たちに伝えました。

 

つまり、自分の身体、感覚、心、法について観察し、理解し、そして全ての欲と自分の憂い、悩みを捨て去るように、自分自身で瞑想等により、心を静めて行く。

 

そして自分自身をよりどころとして、つまり誰にも頼らずに、法を灯明とする、つまり、世間にある、法を守るように生きていくことこそが大事であるということです。そうすれば「悟り」が開けるという教えです。

 

そして悟りを開いた人が「仏」になります。

 

釈迦は悟りを開いた後、「仏陀」と言われました。

 

皆さんはこのような「仏」になれますでしょうか?

 

自分自身をよりどころとし、自分の内側をひたすら観察し、欲や悩みが起きないように心を落ち着かせる。そして世の中にある法を守り続ける。

 

これは完全な「自己完結」ではないですか? 

 

これでは他者とのつながり、人間の思いやり、家族や友人や会社の人々との助け合い、愛などは全く関係していないのではないでしょうか?

 

釈迦は自分自身の悩みや憂いがあるために、悟りを得ようと妻を捨て、子供を捨て、出家しました。そして修行の末にこのような「悟り」を得、「仏」となりました。

 

我々庶民は、人が共存する社会のなかで仕事をし、家族を養い、子育てをして、家族と共に過ごしながら、このような出家することによって得た悟りを、我々、庶民が得ることはできないのではないでしょうか。

 

釈迦が家族を養い、働いた上でこの悟りを開いたなら、我々も同じ価値観を持った人間としてこの教えを聞く意味はあるでしょう。

 

しかし、家族を、子供を捨て、王子で働いた事のない人の教えを、

 

家族を育て、子供を慈しみ、社会で働く人々が聞いても釈迦の考え方や、精神とは違いますので実践することは難しいのではないでしょうか?

 

家族を捨て出家し、自分自身を追求することを第一とする人間でないと悟りは開けないのではないでしょうか?。

 

 

皆さんはどうお感じになりますか?

 

 

 

 

 

では極楽浄土とは一体どういうものなのでしょうか?

 

 

ごくらくじょうど【極楽浄土】

阿弥陀仏のいる世界。西方十万億土の彼方にあり、まったく苦しみのない理想郷で、今も阿弥陀仏が法を説いているとされる。阿弥陀仏を信じ、ひたすら念仏を唱えると、死後ここに迎えられるという。西方浄土。極楽世界。極楽界。極楽安養浄土。極楽。
 

kotobank.jp

www.koumyouzi.jp

 

 

ではこの「阿弥陀仏」とは一体なんでしょうか?

 

 

kotobank.jp

阿弥陀仏
あみだぶつ

 
大乗仏教における諸仏のなかでもっとも代表的な重要な仏。阿弥陀如来(にょらい)ともいい、この仏の信仰を中心として成立したのが浄土(じょうど)教である。阿弥陀という名は、もとインドにおいてはアミターユス(無限の寿命をもつ者。無量寿(むりょうじゅ))とアミターバ(無限の光明をもつ者。無量光)という二つのサンスクリット語で表されていたのであるが、それが中国に伝えられて、どちらも阿弥陀と音写された。
したがって、阿弥陀は単にアミタ(無量の意)を音写したものではなく、この二つの原名のいずれにも相当すると考えられる。

阿弥陀仏信仰を主題とする経典としては、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の「浄土三部経」がある。
無量寿経』によると、久遠の昔、世自在王(せじざいおう)仏が出現されたとき阿弥陀仏は、法蔵(ほうぞう)(ダルマーカラ)比丘(びく)という菩薩(ぼさつ)であったが、無上なる悟りを得ようと発心し、生きとし生ける者を救済するための本願(以前の誓願(せいがん))として四十八願(異本では二十四願、三十六願など)をたて、五劫(こう)という途方もなく長い間修行を重ね、ついにその誓願と修行を成就して、いまから十劫というはるか以前に仏となった。この仏は阿弥陀仏とよばれ、ここより西方の十万億仏土を過ぎた安楽(極楽(ごくらく)のこと。原語はスカーバティー、「楽のあるところ」の意)という世界(浄土)において、現在も教えを説いているという。
このような阿弥陀仏とその浄土については、このほかにも多くの大乗経典に関説されており、その教えはインドからアジア全域に広く流布した。とくに中国、日本においては、念仏によって阿弥陀仏の浄土に往生して悟りを得ることを願う教えを浄土門と称し、また他力(たりき)の教えともよび、仏教の一大系統を形成するに至った。
浄土宗、浄土真宗(または真宗)、融通(ゆうずう)念仏宗、時(じ)宗などの諸宗派はみなこの系統に属している。

『藤田宏達著『原始浄土思想の研究』(1970・岩波書店)』
浄土宗、浄土真宗ともに帰依する「阿弥陀仏」とはこういう悟った人、仏のことをいうのです。
「五劫(こう)という途方もなく長い間修行を重ね」とある5劫 1劫は43億2000万年とあります。
ではこの阿弥陀仏になる前の「法蔵菩薩」とは?

www.higashihonganji.or.jp

 遠い遠い昔の、そのまた遠い遠い昔、世自在王仏せじざいおうぶつという仏がおられました。その時、一人の国王がおられました。王は、その仏の教えをお聞きして、心からの喜びをいだかれたのです。
そして、自分も仏になって、世の人びとを悩みや苦しみから救いたいと願うようになられたのです。は、国を棄て、王位を捨て、世自在王仏のもとで出家して修行者となり、法蔵と名告なのられました。これが法蔵菩薩です。

世自在王仏 - Wikipedia

 

どうですか皆さん理解できましたでしょうか?
阿弥陀仏とは、遠い昔、王が国を捨て、出家して法蔵菩薩となられた。
その法蔵菩薩生きとし生ける者を救済するための本願(以前の誓願(せいがん))として四十八願(異本では二十四願、三十六願など)をたて、五劫(こう)という途方もなく長い間修行を重ね、ついにその誓願と修行を成就して、いまから十劫(432億万年)というはるか以前に仏となった。
この仏は阿弥陀仏とよばれ、ここより西方の十万億仏土を過ぎた安楽(極楽(ごくらく)のこと。原語はスカーバティー、「楽のあるところ」の意)という世界(浄土)において、現在も教えを説いているという。
この「阿弥陀仏」を信じることができますか?
五劫(こう)という途方もなく長い間修行を重ねる。約216億万年です。
阿弥陀仏とは、法蔵菩薩という元々、王であった人が、人を救うという願いを立て、そのための修行を216億万年をやり終えた人、これが阿弥陀仏です。
つまり、人が自分自身を修行して、磨いて悟りを開いた「人」、つまり「仏」が人を救う、これが仏教の本質です。
そこに「神」という概念は一切ありません。
仏教とは、人が究極的に修行をして素晴らしく悟りを開いた人が「仏」です。
聖書の神、つまり創造主は、全ての物を創造した。当然、「人」もです。
そして、その現代の人もその神を忘れ、離れ、感謝せず、認識せずに生きることを「罪」だと語っています。
人が修行をして悟りを得たのが「仏」 仏教ではその「仏」が人を救う
 
 
神が人を創造し、人が神から離れ自分の基準で勝手に生きることを罪という、
 
そして罪ある人を救済するために、
「神」が「人」となって、世にこられたのがイエスキリストであると聖書は語ります。
 
仏教と聖書の創造主、イエスキリストは全くの逆、反対です。
 
人が仏となるのが仏教
 
 
「神」が「人」になり、人を救うために犠牲になったのが、神の御子である、イエスキリストです。

 

 

 

 

浄土宗浄土真宗はひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えれば善人であれ、悪人であれ、全て極楽浄土に行けるという教えです。

 

では「南無阿弥陀仏」とはどういう意味なのでしょうか?

 

皆さんはご存知でしょうか?

 

jodo.or.jp

「南無」はナモーの音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマスの連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。

 

阿弥陀は、その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明 」と「アミターユス(無量の寿命)」に共通するアミタ(無量)のみを音写したもの。

 

すなわち南無阿弥陀仏とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。

南無阿弥陀仏 - Wikipedia

 

 

つまり、浄土宗 浄土真宗で最期を迎えた人はひたすら「南無阿弥陀仏」と拝み、先ほど説明した通り、遠い、遠い昔に王であった法蔵菩薩であった方が5劫という途方もない修行を終えられて、今も説法を説いておられる阿弥陀仏が造った極楽浄土に行く。ということです。

 

そしてその極楽浄土で今も阿弥陀仏が教えを説いているそうです。

 

 

 

www.gotquestions.org

 

お釈迦様のご生涯 | 法華宗真門流

 

 

私は仏教、浄土宗、浄土真宗を否定も肯定もしません。
 

私には仏教は読めば読むほど、わからなくなります。とらえどころがありません、難解です。難しいのです。
聖書は理解できます。読めば読むほど理解が深まります。
聖書の創造主とイエスキリストが語る最も大切な「掟」とは
「愛」です。

マタイによる福音書 22

「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。 これがいちばん大切な、第一の掟である。 第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」

 

これが一番大切な掟だとイエスキリストは言われました。

 

全ての人が神に立ち返り、神を愛し、全ての人が自分を愛するように隣り人を愛しなさいと。

 

聖書の教えは明確です。

 

そして神が人を愛するがゆえにその人の内に愛がある。

 

 

ヨハネの手紙4章7

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 神はそのひとり子を世につかわし、彼(御子・イエスキリスト)によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。 神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。 わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。 もし人が、エスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。

 

 

皆様が、極楽浄土に行きたいのであれば、しっかりと阿弥陀仏仏教、浄土宗、浄土真宗について学んでください。

 

学ばないと極楽浄土には行くことができません。

 

そして「南無阿弥陀仏」と唱えなければなりません。

 

 

 

書の神を信じるのであれば、簡単です。

 

この全てのもの、宇宙、地球にある植物や動物、人間など含めた全ての物を創造したのは、創造主がなされました。

 

そしてこの創造主のもとに人がもう一度立ち返り、神と共に生きる決心をし、

神の御子を人として、イエスキリストして、全ての人を救うために、全ての罪のある人々の身代わりとして十字架に架けられた

そして墓に葬られ、創造主がイエスキリストを復活させられ、イエスキリストが私たち全ての人の主(神)であると信じ、口で言い表す人は全て救われます。

 

 

 

ローマ人への手紙10章9節

兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。 モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。 しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

 

 

コリント人への第一の手紙 第15章
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、 ケパ(ペトロ)に現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。 そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。 また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのか。 兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。 もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。 べての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。 すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
 

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主を恐れることは、知恵の初め。

日は仕事中に受付で働いていただいている女性が

「このポスターが前に落ちていました、今日は風が強いので飛んできたのですかね~」

と、ふとそのポスターを見てみると「献血にご協力ください 赤十字血液センター

 

そのポスターの右上に「人間を救うのは、人間だ。」と書いてありました。

 

確かに、事故や手術などで、血液が足りない際に輸血によって人を救うという意味で書いておられると思います。

 

輸血や手術によって一時的には命は助かります。

 

しかしその方が本当の意味で救われる、つまり神に立ち返り、神から赦しをいただき、

神の御子であるイエスキリストが私の主であると信じ、言い表す。この「福音」を得、永遠の命を与えられることが必要です。

 

「人間を救うのは、人間だ。」これは献血の際に用いられているので問題がありませんが、このことを「人間を救うのは、人間だ、神なんかいない」となれば問題となります。

 

今、日本では「無神論」つまり、神を信じない、「神さまなんていない」と思っている方も多いのではないでしょうか?

 

かつての私がそうでした。

 

最近ではプロ野球の世界で良くヒットを打つ選手や素晴らしい投手には「神ってる」、つまり「神がかっている」という事の表現で「神ってる」と言います。

 

低迷しているチームを優勝に導いた成績の良かった選手には「この選手は救世主だー!」と言ったりもします。

 

こういう「神ってる」や「救世主」という言葉を簡単に、軽く口にする。またそのことを当たり前のように、流行語のように使う世間の流れに危機感を覚えます。

 

もちろん私がクリスチャンになる以前、2年前なら「お前、神ってんなー!」「君はこの会社の救世主や!」などと軽々しく使っていたでしょう。

 

本当の意味を知ったなら軽々しくは言えません。

 

人は神になることはできません。この世の救い主になることなどできません。

 

この世を救うことが出来るのはイエスキリストだけです。

 

箴言9章10節

「主を恐れることは、知恵の初め。聖なる方を知ることは悟りである。

 

詩篇111篇10節 

主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。
主の誉れは永遠に堅く立つ。

 

書には神を恐れることで本当の知恵を得ることが出来る。

 

聖なる方、つまり主を知ることで、悟りを得、良い明察を得ることが出来ることが書かれています。

 

創造主である神を本当の意味で恐れなければ、知恵、真実、真理にはたどり着かないのです。

 

 

皆様は神を恐れていますでしょうか?

 

 

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人は種を0から作ることはできない

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創世記第1章9

神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。

 

皆様は考えたことがあるでしょうか?

 

一番初めの種がどうやってできたのか?

 

ひまわりの花は、一つの種から始まり、そのひまわりが成長し、また種を作り、地にその種がまかれ、ひまわりの数が増えます。

では一体、第一番目のひまわりはどのようにして生まれたのでしょうか?

今の現代の技術では、たくさんのひまわりの種を作ることは出来るでしょう。

しかし、なにもないところから、素材を組み合わせ、ひまわりの種を作り、その種からひまわりとして成長させ、またたくさんのひまわりの種を作ることができる種子を創造することはできません。

クローンなどの技術で複製し、種を増やすことはできても、ゼロから細胞を組み合わせて、一つの種から花を咲かせ、自ら成長し、種を作成をすることはできません。

それは、ひまわりだけの話ではなく、全ての生物、全ての生き物にも当てはまります。

そもそも一つの単細胞生物さえ、人は無から一つの細胞を作り、生かすことはできません。生物の中にある核、核の中にあるDNA DNAの中にある原子 分子 素粒子それを組み込んで自動的に生物として生かすことは人にはできません。

 

 

全ては創造主が創造した物を使って生活しているに過ぎないのです。

 

この全ての元を創造された創造主に人は感謝する必要があるのではないでしょうか?

 

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「光」についての神学的瞑想 - 牧師の書斎

 

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救いの邪魔になっている要素の一つ、「進化論」

たち、人間はこの世に生まれます。

今までの人類は進化してきたのでしょうか?

そもそも進化とは何でしょうか?

進んで、化けると書いて「進化」

人の寿命は長くても100年程度

 

生物がこの世に対応するために前進的に肉体や形態の変化を積み重ねることを「進化」とするならば、全ての人は「死にたくない」、「寿命を延ばしたい」、「病気になりたくない」、と強烈に願い、求め、何千年も前の人からそう願い続けて、「寿命が延びる進化」、「年老いない進化」「病気にかからない進化」を求めてきたのではないでしょうか?

特に、この世で順風満帆な人ほど「死にたくない!」と強く願うのではないでしょうか?

それでも人は病気になり、老いて、動けなくなり、長くても100年程度で「死」を迎えます。

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このガラパゴスゾウガメの寿命は200年くらいだそうです。

この亀は、人よりも強く、長く生きたいと願って進化し、寿命が伸びたのでしょうか?

 

人が一番願う「進化」。それは健康な体で生活し、寿命を延ばし、究極的には死なないこと、つまり「不老不死」ではないでしょうか?

 

 

ところで、私たち日本人は学校の教育過程でダーウィンの「進化論」を教えられたと思います。詳しいことは覚えていませんが、猿から人に進化したという絵は頭に残っています。

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現在、科学の領域における仮説の多くは、チャールズ・ダーウィンの進化論を適用することによって、おそらく最初に単純で原始的な生命が生まれ、より複雑な生命へと変化することが繰り返されたのだろうと推察している。(Wikipedia参照)

生命の起源 - Wikipedia

 

私も以前は生命の始まりは、海の中から単細胞生物が生まれ、微生物になり、魚類に、両生類に、爬虫類に、哺乳類、猿人から人類へと、その進化の原因として突然変異の繰り返しで、このような様々な生き物に枝分かれして、現在のような世界になっていると思っていました。

 

 

第一番目に発生した生物の始まりは誰も見たことがないので証明することはできません、ましてや宇宙の始まりの仮説はいくらあっても、現実に見た人も、証明することもできませんし、再現することもできません。現在発表されている理論は限りなく信ぴょう性のある論理だとは思いますが。

 

化論が間違っているということではなく、進化論を信じて生きる人は、創造主を知ることがない、なぜなら「人は、海から微生物の進化の末に今、人が生きている」という考えでは、人は神から創造された尊いものであると思えないからです。あるいは生物、植物全てのものは自然発生したものとするならば、神が全てを創造したという発想にならない。これが進化論を信じる問題であると思います。

 

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 聖書を読む。あるいは聖書の話を聞いて理解しなければ、神が人を創造したという事実を本当に信じることができません。

 

進化論を信じることは、人から神を遠ざけるだけではなく、人が神を理解する際にも大きな妨げ、妨害、邪魔になっているということが問題です。

 

進化論にはたくさんの研究者が現在もいますが、その方たちも論理は組み立てられますが、再現はできません。ましてや素人にはこのような論理や論文などの詳しいところまで理解できません。そして現在では150年前のダーウィンの進化論の信ぴょう性にも疑いがかかっています。

 

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 神が人を創造されたことが書かれているのが聖書です。

神が何のために人を創造したのかも書かれています。

それは神と人とが愛のある従順な関係を築くために創造されたと書かれています。

そして神から離れてしまったのが現在の人であることが書かれています。そしてその離れていることが「罪」であるとも

 

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以下は創世記第1章です。 旧約聖書のまさに始まりの一節です。

これは約3500年前に書かれたものです。

心を静かにして読んで頂ければと思います。

 

 

創世記第1章

はじめに神は天と地とを創造された。 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。 夕となり、また朝となった。第三日である。 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、 天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。 神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、 昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。 夕となり、また朝となった。第四日である。 神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。 神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。 神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。 夕となり、また朝となった。第五日である。 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。 神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

 

創世記第2章

こうして天と地と、その万象とが完成した。 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。 その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。 第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

 

 創世記3章

さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

 

いかがですか? 創世記第1節、これは3500年前に神が人に書かせた書です。

 

この内容、人が思いつくでしょうか? これを人が思いつきで書いたとするならば何の目的で書くのでしょうか? 

 

日本では縄文時代です。

 

私たちは本当に微生物から発生したのでしょうか?

 

 

それならば人は最後に土に帰るだけなのではないでしょうか?

 

 

聖書は創造主が神に似せて人を創造したと書かれています。

 

そして全ての人を創造主は愛していると書いています。

 

そして今、神から離れてしまった、背いてしまった人々を救うために、創造主のもとに、イエスキリストのもとへと引き戻すために「福音」が世界中に伝えられているのです。

 

その福音とは

全ての人は罪人であり、神から離れてしまっている。

人が神から離れ、背いていることを罪だと素直に認め、創造主である神に謝罪すると、全ての罪が赦されること。

 

そしてその創造主が全ての人を救うために、この世に創造主の御子を、人として送られた。

その御子である、イエスキリストが全ての人の罪の身代わりのために十字架に架かってくださったこと、墓に葬られたこと、三日後に創造主がイエスを復活させたこと。

これを心で信じ、口で「イエスキリストが私の主(神)である」と言い表したものは救われ、神と共に天国で住む永遠の命が与えられる。

 

これが「福音」です。

 

今はこのことを信じただけで神は全ての人を赦し、永遠の天国へと引き上げる約束をしてくださるのです。

 

 

墓に葬られた後に3日後にイエスキリストは復活されました。

 

復活を信じる、福音を信じたものは、「永遠の命」が与えられるのです。

 

復活によって、人の「死」が創造主によって葬られました。

 

人が究極に求める「進化」つまり、「不老不死」

 

創造主は人々が究極に求める解決策を「福音」によって成し遂げてくださったのです。

 

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1. 進化論の限界~生命は創造されたのか|聖書の教え | True Ark Bible

 

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救いの確信がない方へ To people who are not sure of salvation

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たしは本当に今、神様から救われているんだろうか?

神である創造主と神の御子であるイエスキリストを信じているけれども、このような心構えや生活態度でいいのだろうか?

不安になることはありませんか?

 

神からの救いは福音にしかありません。

 

福音とは

まず第一に私たち人間を創造された創造主が居られることを信じることです。

この宇宙や地球にあるもの全てを創造された創造主

そして創造主の事を知らず、感謝せず、自分本位に生きてきたことを罪だと素直な気持ちで認めることです。

 

そうですよね、この世に酸素がなければすぐにでも人間は死んでしまいます。

 

酸素や水や食物や全ての元、種、第一の原因を創造し、その創造主がつくられたものを人間は使ってやっと生きることが出来ています。

それを今まで知らずに、自分が仕事をして稼いだからご飯が食べれるんだ!

私が全ての家事をしているから家族は生きていけるんだ!

頑張っている皆さんもすごいのですが

まず人間が生きるための物、環境、など全てを創造した創造主あってこそだと心から認め、感謝してください。そしてこれからこのことを忘れず、神様に感謝してください。

 

そして、人は生まれてくる際には創造主を知って生まれてくる人は一人もいません。

ですので全ての人はこの世で創造主から離れ、自分中心に生きるという罪を持っています。

その全ての人を創造主が救いたいとお思いになり、その解決策として世に送られたのが神(創造主)の御子です。

神の御子がこの世にイエスキリストとして人となられたのです。

ですのでイエスキリストは本来、人ではありません。神が人となられたのです。

そして創造主の御子です。例えが悪いかもしれません、厳密な意味ではありませんが、人間の親と子の関係に近いと思います。

 

そしてその神の御子であるイエスキリストが全ての人の罪の身代わりとして、約2000年前に現実に、十字架にかかり、墓に葬られ、創造主である神がイエスキリストを三日後に復活させられた。この歴史的事実を信じ、口でエスキリストが私たちの主であることを言い表すことで全ての人は救われます。

 

これが福音です。

 

 

まとめますと

創造主に罪を認め感謝し、

エスキリストが全ての人のために

十字架にかかり

墓に葬られ

3日後に創造主によって復活させられた

このことを信じ、口でイエスキリストが神であり、私たちの主(神)であると言い表すことで救われます。

これで救われるのです。

 

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エスキリストが私たちの神であり主であると言い表すには神から与えられた聖霊の働きがなければ言い表すことができません。

この神のご性質である聖霊が福音を得たあとの皆様を導いていただけます。

福音を得たはじめの時期は実感できないかもしれませんが、

聖書が読みたくなったり、

気持ちが優しくなったり、神様に感謝の気持ちが自然と持てるようになったり、

世の中の見方が変わったり、怒ることが少なくなったり、いろんなことが少しづつ変わっていきます。

 

福音を得たのであれば救いから漏れることはありませんが

救いの確信がない方に最もおすすめするのは、少しでも神様に祈ることをおすすめします。

 

救いの確信がなければ、「救いの確信が得られないので、救いの確信が得られるようにしてくださいと」

 

もちろん神様の声は直接聞こえませんが、神様は皆さんの切実な思いを聞き入れ、願いを聞いていただけます。現実を通して、心を通して神の御心に合うことは叶えていただけます。

そして毎日願い、祈り続けるうちに救いの確信は得られます。

 

神は福音を得た方との交流を喜ばれます。

それは祈ることです。

祈ることが交流となります。

神への感謝と祈りを捧げるならば神は、より深くみなさまのことを理解されるでしょう。

自分のことを祈ることも大切ですが、

まだ福音を得ていない方が、福音を得ることができるように神へ祈ることが必要です。

福音を得てみると、周りにまだ福音を得ていない方がいることがわかります。

福音を得ていない人が福音を得るには、福音を得ているクリスチャンの祈りがその人には必要となります。

 

そしてそのご本人が神に立ち返る決心をして福音を得、神からの救いがあるのです。

 

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コリント人への第一の手紙 第15章
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、 ケパ(ペトロ)に現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。 そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。 また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのか。 兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。 もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。 べての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。 すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

 

 

テサロニケ人への手紙第一 5章

 兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。 あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。 しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。 だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。 しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。 神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。 だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。 兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、 彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。 御霊を消してはいけない。 預言を軽んじてはならない。 すべてのものを識別して、良いものを守り、 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。

 

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聖書はすごい!面白い! The Bible is amazing! interesting!

今、現在の状況は聖書に書かれている預言が非常に早まっています。

そのこともあって皆さんに早く福音を得ていただきたい気持ちが強すぎて

深刻な話ばかりをしてきました。

 

今回は深刻な話ばかりでなく聖書の面白さ すばらしさ 驚愕する ことをお伝えしたいと思います。

 

ころで皆さんは好きな歴史上の人物はいらっしゃいませんか?

 

日本人なら、例えば幕末の志士 坂本龍馬は好きな方も多いのではないでしょうか?

若くして日本のために命懸けで頑張ってくれたので好きだという方

あるいは土佐藩出身で同郷であるから誇りに思っている方

同時代に生きていた祖先が代々坂本龍馬の素晴らしさを伝え聞いて好きな方

テレビで坂本龍馬の歴史を学んで好きになった方

坂本龍馬のことが書かれた小説を読んで好きになった方。

現在坂本竜馬が日本人が愛されるのは、坂本龍馬が何をしたのかよく知っているから好きということになるのではないでしょうか?

 

小説「竜馬がゆく司馬遼太郎さんが書かれましたが、私も遠い昔に読みました。

土佐弁で竜馬が本当に話しているように感じて小説に引き込まれました。

本当に竜馬の心の内を見たかのように、

幼少時代に気の弱かった竜馬が姉に鍛えられ、話している姿も目に浮かぶようでした。

竜馬がゆく」は本当に面白く、あっとゆう間に全て読んだと思います。

おそらく作者の司馬さんは相当な資料を集め、当時の歴史の背景を学び、研究に研究を重ねて、まさにその当時の幕末の志士の気持ちになったかのように書かれたためにこんなにも日本人に愛される小説、坂本龍馬のイメージが作られたのではないでしょうか。

しかし、小説で語られる坂本龍馬と、現実に日常生活を過ごした坂本龍馬は一致しているのでしょうか?

作者である司馬さんは時代が違いますので、その時代の実際の現状を全て理解するのは不可能ではないでしょうか?もちろん坂本龍馬とは実際に話すことはできなかったのですから。

もちろん小説ですので脚色や作者のイメージが含まれるのではないでしょうか?

私も好きですよ「竜馬がゆく

そして坂本龍馬

 

しかし、もっと好きな本があります、

お分かりだと思いますが聖書です!

聖書は全てイエスキリストについて書かれています。

旧約聖書はイエスキリストが世に来られる1500年前から書かれ、

エスキリストについて書いていることがわかります。

生まれる前からどこの家系で、どこの場所で、どういうことをして、最後に人々の罪を背負って十字架にかかり、三日後に復活することが書かれています。

これだけでもすごいのですが、

しかも新約聖書には4つの福音書というものがあります。

エスキリストと共に過ごした弟子は12人いますがそのうちのマタイ ルカ マルコ ヨハネの4人の弟子がそれぞれが福音書を書きました。

実際に見たこと、目の前で起こったこと、そして実際にイエスキリストが語られたそのままの言葉が正確に書き記されています。

ですのでイエスキリストが実際に行った、教えた、語ったことを弟子である4人が各自で書いた福音書が4つ残されています。

 

 歴史小説は作者が過去の残されたものだけの資料、しかもそれが本物かどうか確認しようがない資料も含めた上で、作者がその当時の主人公の気持ちや動きを推理して書いたものですが、

 

聖書は約2000年前に実際に目の前で起こったことを、見たままに、それぞれ4人の別の作者が同じ内容で書き記しています。それゆえにその真実性、その信ぴょう性があります。

そしてその主人公であるイエスキリストが話した言葉がそのまま伝えられています。

つまりは2000年前のイエスキリストが人々に教え、語った言葉、その実際の声が聖書を開き読むことで聞くことが出来るのです!

 

いやー! すごいですよ聖書は! 神が作ったこの聖書は! こんな本が人間に考えられるわけがありません! しかも何回読んでも飽きません! 私は毎日読んでいます。 少し読んでも新たな発見が! 少し読めば今の私に必要なことが! 少し読めば今のニュースと関係していることが 読めば読むほど神の愛情がわかり、読めば読むほどイエスキリストのことがわかり、読めば読むほど聖霊の働きとともに聖書の奥深さがわかります。しかも底なしの奥深さです! 「すごい!!!」としか言いようがありません!

 

しかもいいですか。聖書は現実とつながっていますから

皆さんも登場人物なのですよ!!!!!!

 

聖書の終りは、はっきりと書かれています。

今がどの時代であるかも、はっきりわかります。

 

しかし現実はまだ終わっていません。

これから聖書と現実が重なり合って完結を迎えていきます。

竜馬がゆく」を読まなくても失うものは何もありませんが、

聖書を読まなければ永遠の命を失うのです。

 

聖書は、現実は、その登場人物である、現代の人それぞれが、主人公であるイエスキリストを信じ、主人公であるイエスキリストの言葉を守り、最後に主人公であるイエスキリストに会うことができるのが聖書の最大の真実です。

恋愛小説で例えるなら離ればなれになっていた男女が苦難の末に巡り会うような最高潮の場面です。聖書ではイエスキリストを花婿 イエスキリストを信じる人を花嫁に例えます。

ですので皆さんはこれから聖書を読み福音を得ることで、この、主人公であるイエスキリストに会うことができるのです!

最後の結末はわかっています。イエスキリストを信じたものはハッピーエンド!

そして永遠の命! 永遠の天国です!

 

一方、聖書を読まず、イエスキリストを信じず、神に頼らず、神の創造した地球で、自分の力だけで生きよう、あるいは悪と手を組み繁栄しようとするもの、悪に利用されるもの、悪に手を貸すもの、神でないものに感謝し、神でないものに仕えているもの、神でないものを間違えて拝んでいるもの、真の神に感謝しない人々は、最後に滅ぼされます。

 

後のページに近づいています。

聖書は読み始めると読みたくなります。

読み始めることが大切です。

この世で何よりも素晴らしく、最も面白く、最も感動し、愛を知り、厳しさを知り、素直さを学び、従順を学び、神と神であるイエスキリストを知る本が聖書です。

 

私の一番のおすすめの本です!

世界でダントツ1位の総発行部数です!

4000億冊!

 

どうか皆様が永遠のハッピーを得られるようにお祈り申し上げます。

 

 

 新約聖書の最後の一文です。

 

ヨハネの黙示録22章20

以上すべてを証する方が、言われる。「然(しか)り、わたしはすぐに来る。」

アーメン、主イエスよ、来てください。

主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

 

 

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